ノーツ・アンド・クエリーズ(Notes and Queries)
『ノーツ・アンド・クエリーズ』は、1849年にイギリスで創刊された学術雑誌。
その副題に「文学者、芸術家、古物研究家、系譜学者その他の間の相互交通のための媒体」とあり、「ノーツ(報告)」「クエリーズ(質問)」「リプライズ(答文)」の3部から構成される、読者投稿のみによって成り立つ雑誌。
種々雑多な内容に富み、『ネイチャー』が自然科学雑誌であったのに対し、『ノーツ・アンド・クエリーズ』は何でもありな感じで、南方熊楠(1867〜1941)も生き生きと筆を振るうことができたのだと思います。
帰国の前年の1899年6月に初掲載されて以降、熊楠は次第に発表先を『ネイチャー』から『ノーツ・アンド・クエリーズ』に移しました。
1899年の初掲載から晩年1933年までの間に『ノーツ・アンド・クエリーズ』に掲載された論文は323篇(『南方熊楠全集 10 』 に所収、邦訳は『南方熊楠英文論考「ノーツ・アンド・クエリーズ」誌篇』
)。
南方熊楠は『ノーツ・アンド・クエリーズ』の読者や編集者から東洋学の権威として一目置かれました。
ノーツ・エンド・キーリス
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳9)
明治31年頃より小生は『ノーツ・エンド・キーリス』に投書を始め、今日まで絶えず特別寄書家である。これは76年前に創刊されたもので、週刊の文学兼考古学雑誌である。
南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その18)
英国ダヴェントリー辺昔嗹人敗死の蹟に彼らの血から生えたという嗹人血なる草あり、某の日に限りこれを折ると血出ると信ぜらる、これは桔梗科のカムバヌラ・グロメラタ(ほたるぶくろの属)の事とも毛莨科のアネモネ・プルサチラ(おきなぐさの属)の事ともいう(同上、頁三一五。一九一〇年十二月十七日『ノーツ・エンド・キーリス』四八八頁)。
南方熊楠の随筆:十二支考 兎に関する民俗と伝説(その9)
英国で少女が毎月朔日最初に言うとて熟兎と高く呼べばその月中幸運を享く、烟突の下から呼び上ぐれば効験最も著しく好き贈品随って来るとか(一九〇九年発行『随筆問答雑誌』十輯十一巻)。
南方熊楠の随筆:十二支考 兎に関する民俗と伝説(その10)
英国の一部には兎が村を通り走ればその村に凶事生ずとも火災ありともいう。明治四十一年四月ハロー市の大火の前に兎一疋市内を通り抜けた由(翌年六月五日の『随筆問答雑誌』四五八頁)。
南方熊楠の随筆:十二支考 兎に関する民俗と伝説(その4)
英国ダヴェントリー辺昔嗹人敗死の蹟に彼らの血から生えたという嗹人血なる草あり、某の日に限りこれを折ると血出ると信ぜらる、これは桔梗科のカムバヌラ・グロメラタ(ほたるぶくろの属)の事とも毛莨科のアネモネ・プルサチラ(おきなぐさの属)の事ともいう(同上、頁三一五。一九一〇年十二月十七日『ノーツ・エンド・キーリス』四八八頁)。
南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その7)
ある蛇どもが乳を嗜む事は、一九〇七年版、フレザーの『アドニス篇』に載せて、蛇を人間の祖先と見立てた蛮人が、祖先再生までの間これを嬰児同様に乳育するに及んだのだろうとあるを、予実例を挙げて、蛇が乳を嗜むもの多きより、これを崇拝する者乳を与うるのだと駁し置いた(一九〇九年『ノーツ・エンド・キーリス』十輯十一巻、一五七—八頁)。
南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その44)
以上拙考の大要を大正二年の『ノーツ・エンド・キーリス』十一巻七輯に載せ更に念のため諸家の批評を求めると、エジンボロのゼームス・リッチー博士の教示にいわく、エリアヌスが筆した蜈蚣鯨はゴカイ類のある虫だろう、
南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その8)
英国や米国南部やジャマイカでは、蛇をいかほど打ち拗ぐとも尾依然動きて生命あるを示し、日没して後やっと死ぬと信ず(『ノーツ・エンド・キーリス』十輯一巻二五四頁)。
南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その36)
未聞の代には鬼市として顔を隠し、また全く形を見せずに貿易する事多し(一九〇四年の『随筆問答雑誌』十輯一巻二〇六頁に出た拙文「鬼市について」)。
南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その12)
十七世紀末の雑誌『アセニアン・マーキュリー』は、予が年久しく寄稿する『随筆問答雑誌』の前身といえる。
南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その17)
四十七、八年前パリ籠城の輩多く馬を屠ったが、白馬の味太く劣る故殺さず、それより久しい間パリに白馬が多かった(『随筆問答雑誌』十一輯七巻百九頁)。
南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その21)
ただし馬の眼果して物を大に視るとするも、何もかも皆廓大さるるから諸物大小の割合は少しも常態を外れず、人は馬の眼に依然他の馬より小さく見えるはずと論じた人あり(一九一六年六月二十四日の『随筆問答雑誌』五〇九頁)。