(その10)
すべて一国民一種族の習俗や信念は人類初めて生じてより年代紀すべからざる永歳月を経種々無限の遭際を歴て重畳千万して成った物だから、この事の原因はこれ、かの事の起源はあれと一々判然と断言しがたく、言わば兎を半男女また淫獣また怯懦また族霊としたから、兎が悪兆に極められてしもうたと言うが一番至当らしい、さて予の考うるは右の諸因のほかに兎が黠智に富むのもまた悪獣と見られた一理由だろ。
猟夫から毎度聞いたは猟に出懸ける途上兎を見ると追い懸けて夢中になる犬多く、追えば追うほど兎種々に走り躱れて犬ために身憊れ心乱れて少しも主命を用いず、故に狩猟の途上兎を見れば中途から還る事多しと、したがって熊野では猟夫兎を見るのみかはその名を聞くばかりでも中途から引き還す。アボットの書(上出)にマセドニア人兎に道を横ぎらるるを特に凶兆とし、旅人かかる時その歩立と騎馬とに論なく必ず引き還す。熟兎や蛇に逢うもまたしかり。
スコットランドや米国でもまたしかり。ギリシアのレスボス島では熟兎を道で見れば凶、蛇を見れば吉とすと見ゆ。英国のブラウン(十七世紀の人)いわく当時六十以上の人兎道を横ぎるに逢うて困らざるは少なしと。ホームこれに追加すらく、姙婦と伴れて歩く者兎道を横切るに遭わばその婦の衣を切り裂きてこれを厭すべしと。フォーファー州の漁夫も、途を兎に横ぎらるれば漁に出でず(ハツリット、同前)。コーンウォールの鉱夫金掘りに之く途中老婆または熟兎を見れば引き還す(タイロル『原始人文篇』巻一、章四)。
兎途を横ぎるを忌む事欧州のほかインド、ラプランド、アラビア、南アフリカにも行わる(コックス、一〇九頁)。ギリシアではかかる時その人立ち駐りて兎を見なんだ人が来て途を横ぎるを俟ちて初めて歩み出す(コラン・ド・ブランチー、前出)。
スウェーデンでは五月節日に妖巫黒兎をして近隣の牛乳を搾り取らしむると信じ、牛を牛小舎に閉じ籠め硫黄で燻べてこれを禦ぐ。たとい野へ出すも小児を附け遣わさず主人自ら牛を伴れ行き夕に伴れ帰って仔細に検査し、もし創つきたる牛あらばこれを妖巫に傷つけられたりと做し、燧石二つで牛の上から火を打ち懸けてその害去ると信じ、また件の黒兎に鬼寄住し鳥銃も利かず銀もしくは鋼の弾丸を打ち懸けて始めてこれを打ち留め得と信ぜらると(ロイド、前出一五)。
以前は熊野の猟師みな命の弾丸とて鉄丸に念仏を刻み付けて三つ持ち、大蛇等変化の物を打つ必死の場合にのみ用いた。伊勢の巨勢という地に四里四方刀斧入らざる深山あり、その近傍で炭焼く男いつの歳か十月十五日に山を去って里に帰らんとするに妻子を生む。因って二里半歩み巨勢へ往き薬を求め還って見れば小舎の近傍に板箕ほど大きな蹟ありて小舎に入り、入口に血滴りて妻子なし。必然変化の所為と悟り鉄砲を持ち鉄鍋の足を三つ欠き持ちて足蹟を追い山に入れば、極めて大なる白猴新産の子を食いおわり片手で妻の髪を掴み軽々と携えて走り行く、後より戻せと呼ぶと顧みて妻を樹の枝に懸けて立ち留まりやがて片手で妻を取り上げその頭を咬む、その時遅くかの時速くその脇下に鍋の足を射込んで殺しおわったが、全体絶大なかなか運ぶべくもあらねばその尾のみ切り取って帰った。白毛茸生僧の払子のごとく美麗言語に絶えたるを巨勢の医家に蔵すと観た者に聞いた人からまた聞きだ。すべて化生の物は脇を打つべく銃手必死の場合には鉄丸を射つべしというた。
スウェーデンと日本と遠方ながら似たところが面白くて書き付けた。英国の一部には兎が村を通り走ればその村に凶事生ずとも火災ありともいう。明治四十一年四月ハロー市の大火の前に兎一疋市内を通り抜けた由(翌年六月五日の『随筆問答雑誌』四五八頁)。
最後に和田垣博士の『兎糞録』はまだ拝見せぬが兎糞には種々珍しい菌類を生じ予も大分集め図説を作りある。備後の人いわく兎糞を砂糖湯で服すると遺尿に神効ありと。また予の乾児に兎糞を乾かして硬くなったのを数珠に造りトウフンと名づけて、田辺湾の名物で只今絶滅した彎珠の数珠に代えて順礼等を紿き売った者がある、何してでも儲くりゃ褒められる世の中には見揚げた心底じゃ。
(大正四年一月、『太陽』二一ノ一)
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「兎に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収