(その6)
それから『今昔物語』に大和国に殺生を楽しんだ者ありて生きながら兎の皮を剥いで野に放つとほどなく毒瘡その身を腐爛して死んだと載せて居る。故ロメーンスは人間殊に小児や未開人また猴や猫に残忍な事をして悦楽する性ある由述べた。すなわち猫が鼠を捉えて直ちに啖わず、手鞠にして抛げたりまた虚眠して鼠その暇を伺い逃げ出すを片手で面白そうに掴んだりするがごとし。
わが邦の今も小児のみか大人まで蟹の両眼八足を抜いて二※[#「挈」の「手」に代えて「虫」、104-6]のみで行かせたり蠅の背中に仙人掌の刺を突っ込み幟として競争させたり、警察官が婦女を拘留して入りもせぬ事を根問いしたり、前和歌山県知事川村竹治が何の理由なく国会や県会議員に誓うた約束をたちまち渝して予の祖先来数百年奉祀し来った官知社を潰しひとえに熊楠を憤らせて怡ぶなどこの類で、いずれも仏眼もて観れば仏国のジル・ド・レッツが多数の小児を犯姦致死して他の至苦を以て自分の最楽と做したに異ならぬ。川村の事は只今グラスゴウ市の版元から頼まれて編み居るロンドン大学前総長フレデリク・ヴィクトル・ディキンズ推奨の『南方熊楠自伝』にも書き入れ居るから外国までの恥曝しじゃ。
とにかくかかる残忍性多き者が平気でおらるるこの世界はまだまだ開明などとは決して呼ばれぬべきはずだ。さて一寸の虫にも五分の魂でマヤースの『ヒューマン・パーソナリチー』に犬にも幽霊ある事は予も十数年研究していささか得たところあるが不幸にも観る人の心を離れて幽霊という物ある証拠を一も得ない。しかしもし人に幽霊あらば畜生にも幽霊あるべしで、『淵鑑類函』四三一に司農卿揚邁が兎の幽霊に遇った話を載せ、『法苑珠林』六九に王将軍殺生を好んでその女兎鳴の音のみ出して死んだとある。
『治部式』に支那の古書から採って諸多の祥瑞を挙げた中に赤兎上瑞、白兎中瑞とある、赤兎はどんな物か知らぬが、漢末に〈人中に呂布あり馬中に赤兎あり〉と伝唱された名馬の号から推すと、まずは赤馬様の毛色の兎が稀に出るを上瑞と尊んだのだろ、『類函』に〈『後魏書』、兎あり後宮に入る、門官検問するに従って入るを得るなし、太祖崔浩をしてその咎徴を推せしむ、浩以為らくまさに隣国嬪を貢する者あるべし、明年姚興果して来り女を献ず〉すなわち白兎は色皙の別嬪が来る瑞兆で、孝子の所へも来る由見え、また〈王者の恩耆老に加わりまた事に応ずる疾ければすなわち見る〉とあって、赤兎は〈王者の徳盛んなればすなわち至る〉と出づ。
『古今注』に〈漢の建平元年山陽白兎を得、目赤くして朱のごとし〉とあれば、越後兎など雪中白くなるを指したのでなく尋常の兎の白子を瑞としたのだ。熟兎に白子多きは誰も知る通りだが明の崇禎の初め始めて支那へ舶来、その後日本へも渡ったらしい(『本草啓蒙』四七)。黒兎は以前瑞としなかったが石勒の時始めて水徳の祥とした。
プリニウスいわく越後兎冬白くなるは雪を食うからと信ぜらると。何ぼ何でも雪ばかりじゃあ命が続かぬが、劉向の『説苑』一に弦章斎景公に答えた辞中、尺蠖黄を食えばその身黄に蒼を食えばその身蒼しとあれば、動物の色の因をその食物に帰したのは東西一轍と見える。
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「兎に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収