和漢三才図会(わかんさんさいずえ)
南方熊楠の少年時代最大の愛読書。
江戸時代、1712年(正徳2年)頃に出版された絵入りの百科事典。
編集者は大阪の医師、寺島良安(てらじま りょうあん)。
中国明代の『三才図会』を真似て作られました。
全105巻81冊に及ぶ膨大なもので、和漢の三才(天・地・人)を総合的に記述し、図を添えています。本文は漢文。
南方熊楠は少年時代に3年かけて『和漢三才図会』全105巻を筆写しました。
南方熊楠の学問の基礎がこの『和漢三才図会』にあり、熊楠の学問というのは、
全地球的な『和漢三才図会』を作ることを目指していたのでは、と思われます。
熊楠が筆写した『和漢三才図会』の一部は南方熊楠記念館で見ることができます。
細かな字で、図もきちんと模写されています。全105巻を写しきるなんてものすごい根気です。
現在もっとも入手しやすいの『和漢三才図会』は、平凡社、島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳注の東洋文庫の『和漢三才図会』全18巻。
和漢三才図会
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳3)
小生は次男で幼少の頃より学問を好み、書籍を求めて8、9歳の頃より20町、30町も走り歩き借覧して、ことごとく記憶して帰り反古紙に写し出し、繰り返し読んでいた。『和漢三才図会』105巻を3年かかって写す。『本草綱目』、『諸国名所図絵』、『大和本草』などの書籍を12歳のときまでに写し取った。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳10)
さて、いわく、汝シュレーゲルが毎度秘書のように名を隠して引用する(じつは日本ではありふれた書)『和漢三才図会』に、オランダ人は小便するとき片足を挙げて犬のようにするとある。
南方熊楠の随筆:きのふけふの草花
達磨大師九年面壁の時、眠くてならぬから自分で上下のまぶたを切つて捨てた処に翌朝この草がはえあつた、花が肉色でまぶたの様だつたので、眼皮と名づけたと、和漢三才図会に俗伝をのせある。
南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その4)
これは『水経註』に見えた水虎の話を西人が誤聞したのでないか。『本草綱目』虫部や『和漢三才図会』巻四十にも引かれ、わが国の河童だろうという人多いが確かならぬ。
南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その18)
わが邦の毒草「しびとばな」も花時葉なく墳墓辺に多くある故死人花というて人家に種うるを忌む(『和漢三才図会』九二)というが、この花の色がすこぶる血に似ているのでかく名づけたのかも知れぬ、
南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その25)
『大和本草』国俗狐を射干とす、『本草』狐の別名この称なし、しかれば二物異なるなり」といい、『和漢三才図会』にも〈『和名抄』に狐は木豆弥射干なり、関中呼んで野干と為す語は訛なり、けだし野干は別獣なり〉と記す、
南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その37)
『和漢三才図会』にこれをわが邦の天狗の類としまたわが邦いわゆる山男と見立てた説もあるが、本体が鳥で色々に変化し殊に虎を使うて人を害するなど天狗や山男と手際が違う。とにかく南越地方固有の迷信物だ。
南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その6)
さて『和漢三才図会』の著者が、〈けだし竜宮竜女等の事、仏経および神書往々これを言う、更に論ずるに足らず〉と結んで居るが、一概に論ずるに足らずと斥けては学問にならぬ、仍ってこれから、秀郷の竜宮入りの譚の類話と、系統を調査せんに、まず瑣末な諸点から始めるとしよう。
南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その10)
『和漢三才図会』六八に、立山の畜生が原は、昔奥州の藤義丞なる者、ここでしきりに眠り馬に変じ、あまつさえ角を生ぜるを、今に本社の宝物とすと。