田原藤太竜宮入りの話(その20)

田原藤太竜宮入りの話インデックス

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  • 竜とは何ぞ
  • 竜の起原と発達
  • 竜の起原と発達(続き)
  • 本話の出処系統

  • (竜とは何ぞ9)

     一三三〇年頃仏国の旅行僧ジョルダヌス筆、『東方驚奇編ミラビリア・デスクリプタ』にいわく、エチオピアに竜多く、頭に紅玉カルブンクルスいただき、金沙中に棲み、非常の大きさに成長し、口から烟状の毒臭気を吐く、定期に相集まり翼を生じ空を飛ぶ。上帝その禍を予防せんため、竜の身を極めて重くし居る故、みな楽土より流れ出るある河にちて死す、近処の人その死をうかがい、七十日の後そのしかばね頭頂いただき根生ねざした紅玉を採って国の帝にたてまつると。

    十六世紀のレオ・アフリカヌス筆、『亜非利加記アフリカイ・デスクリプチオ』にいう、アトランテ山の窟中に、巨竜多く前身太く尾部細く体重ければ動作労苦す、頭に大毒あり、これに触れまた咬まれた人その肉たちまちもろくなりて死すと。

    すべて※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)がくや大蛇諸種の蜥蜴など、飽食後や蟄伏中に至って動作遅緩なるより、竜身至って重してふ説も生じたであろう。インド、セイロン、ビルマ等の産、瓔珞蛇ダボヤたけ五尺に達する美麗な大毒蛇だが、時に街中まちなか車馬馳走の間に睡りてごうも動かず、いささかも触るれば、急に起きて人畜を傷つけ殺す(サンゼルマノ『緬甸帝国誌ゼ・バーミース・エンパイヤー』二十一章)。

    竹園ちくおんで説法せし時、長老比丘衆中を仏の方向き、脚をべて睡るに反し、修摩那比丘はわずかに八歳ながら、端坐しいた。仏言う、説法の場で眠る奴は死後竜に生まれる。修摩那は一週間ったら四神足を得べしと(『長阿含経じょうあごんぎょう』二十二)。また給孤独園ぎっこどくおんで新たに出家した比丘が、坐禅中睡って房中に満つる大きさの竜と現われた、他の比丘これを見て声を立てると、竜眼を覚ましまた比丘となりて坐禅する。仏これを聞いて竜の性睡り多し、睡る時必ず本形を現わすものだと言いて、竜比丘を召し、説法して竜宮へ還し、以後竜の出家を許さなんだ(『僧護経』)。

    『類函』四三八に、王趙かたへ一僧来り食を乞い、食おわって仮寝うたたねする鼾声夥しきをいぶかり、王出て見れば竜睡りいた。めてまた僧となり、袈裟一枚大の地を求むるので承知すると、袈裟をばせば格別大きくなる。かくて広い地面を得て、大工を招き大きな家を立てると、陥って池となり、竜その中に住む。御礼に接骨方ほねつぎのほうを王氏に伝え、今も成都で雨乞いに必ず王氏の子孫をして池に行き乞わしむれば、きっと雨ふるとある。

    これは、『阿育アソカ王伝』の摩田提マジアンチカ尊者が大竜より、自分一人坐るべき地を乞い得て、その身を国中に満たして※(「よんがしら/(厂+(炎+りっとう))」、第4水準2-84-80)賓国けいひんこくを乗っ取った話(『民俗』二年一報、予の「話俗随筆」に類話多くづ)、また柳田君の『山島民譚集』にあつめた、河童かっぱが接骨方を伝えた諸説の原話らしい、『幽明録』の河伯女かはくのむすめが夫とせし人に薬方三巻を授けた話などを取りぜた作と見ゆ。とにかくかようの譚は、瓔珞蛇ダボヤなど好んで睡る爬虫に基づいたであろう。

    熱帯地で極暑やや寒き地で、冬中※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)がくは蟄伏する(フムボルト『回帰線内墨州紀行トラヴェルス・ツー・エクエノクチカル・アメリカ』英訳十九章)。シュワインフルトの『亜非利加の心臓イム・ハーツュン・フォン・アフリカ』十四章に、無雨季節には※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)いかな小溜水にも潜み居ると言い、パーキンスの『亜比西尼住記ライフ・イン・アビッシニヤ』二十三章に、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)その住むべき水より、遠距離なる井の中に住んで毎度羊をくらいしが、最後に水汲みに来た少女をり懸りてあらわれ殺された由見ゆ。支那書に見ゆる蟄竜や竜、井の中にあらわれた譚は、こんな事実を大層に伝えたなるべし。

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    「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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