田原藤太竜宮入りの話(その32)

田原藤太竜宮入りの話インデックス

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         竜の起原と発達(続き)

     上に引いたフィリップ氏の言葉通り、今の世界に絶迹ぜっせきたる過去世期の諸爬虫の遺骸化石が竜てふ〔という〕想念を大いに助長したは疑いをれず。『類函』四三七に
    〈『拾遺記』に曰く、方丈の山東に竜場あり、竜皮骨あり、山阜さんぷのごとし、百けいに散ず、その蛻骨の時に遇えば生竜のごとし、あるいはいわく竜常にこの処に闘う、膏血こうけつ流水のごとしと。『述異記』に曰く、普寧県に竜葬のあり、父老いう竜この洲において蛻骨す、その水今なお竜骨多し、按ずるに山阜岡岫こうしゅう、竜雲雨を興すもの皆竜骨あり、あるいは深くあるいは浅く多く土中にあり、歯角脊足宛然さながら皆具う、大なるは数十丈、あるいは十丈につ、小さきはわずかに一、二尺、あるいは三、四寸、体皆具わる、かつて因ってあつめこれを見る、また曰く冀州鵠山こくさんに伝う、竜千年すなわち山中において蛻骨す、今竜岡あり、岡中竜脳を出す〉。

    くだんの竜葬洲は今日古巨獣の化石多く出す南濠州の泥湖様の処で、竜が雲雨を興す所皆竜骨ありとは、偉大の化石動物多き地を毎度風雨で洗い落して夥しく化石を露出するを竜が骨をぬぎかえ風雨を起して去ると信じたので、原因と結果を転倒した誤解じゃ、『拾遺記』や『述異記』は法螺ほらばかりの書と心得た人多いが、この記事などは実話たる事疑いなし、わが邦にも『雲根志うんこんし』に宝暦六年美濃巨勢村の山雨のために大崩れし、方一丈ばかりな竜の首半ば開いた口へ五、六人も入り得べきが現われ、枝ある角二つ生え歯黒く光り大きさ飯器のごとし、近村の百姓怖れて近づかず耕作する者なし、翌々年一、二ヶ村言い合せ斧鍬など携えて恐る恐る往き見れば石なり、因って打ち砕く、その歯二枚を見るに石にして実に歯なり、その地を掘れば巨大なる骨様の白石多くづと三宅某の直話じきわを載せ居る、古来支那で竜骨というもの爬虫類に限らず、もとより化石学の素養もなき者が犀象その他偉大な遺骨をすべてかく呼ぶので(バルフォール『印度事彙』一巻九七八頁)、讃岐小豆島の竜骨は牛属の骨化石と聞いた。

    つい前月も宜昌附近にかかる化石が顕われて、天が袁皇帝に竜瑞を降したと吹聴された、山本亡羊の『百品考』に引いた『荒政輯要』には月令に〈季夏漁師に命じて蛟を伐つ、鄭氏いわく蛟を伐つと言うはその兵衛あるを以てなり〉とあるを解くとて、蛟は雉と蛇と交わり産んでその卵大きさ輪のごときが埋まりある上に、冬雪積まず夏苗長ぜず鳥雀すくわず、星夜れば黒気天に上る、蛟かえる時せみまた酔人のごとき声し雷声を聞きて天に上る、いわゆる山鳴は蛟鳴で蛟出づれば地崩れ水害起るとてこれを防ぐ法種々述べおり、月令に毎夏兵を以て蛟を囲み伐つ由あるは周の頃土地開けず文武周公の御手もと近く※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)がくが人畜を害う事しきりだったので、漢代すでにかかる定例の※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)狩りはなくなった故てい氏が注釈を加えたのだ。

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    「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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