田原藤太竜宮入りの話(その31)

田原藤太竜宮入りの話インデックス

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     マルコ・ポロの紀行に、宋帝占うて百の眼ある敵将にあらずんば、宋を亡ぼし得ずと知ったところ、元将伯顔バヤンの名が、百眼と同音で、宋を亡ぼしたとある。これは確か『輟耕録』にも見えいた。

    ここをユール注して、近世も似た事あり、インドの讖語しんごにバートプールの砦は大※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)にあらざれば陥れ能わずと言うた。さて砦が英軍に取られて梵志がはて面妖なと考えると、英軍の主将名はコムベルメールで、これに近いヒンズことばクムヒル・メールは※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)君の意だから讖語があたったと恐れ入ったと書いた。そのクムヒルの原語クムビラの音訳が薬師の十二神将の宮毘羅くびら、仏の大弟子の金毘羅比丘こんぴらびく、讃岐に鎮座して賽銭を多くせしめる金毘羅大権現等で、仏典には多く蛟竜と訳し居る。

     支那で古く蛟と呼んだは『呂覧』に、※(「にんべん+次」、第4水準2-1-42)しひ宝剣を得て江を渉る時二蛟その船をはさめぐったので、飛江に入って蛟を刺し殺す。『博物志』に孔子の弟子澹台滅明たんだいめつめいたまを持って河を渡る時、河伯その璧を欲し二蛟をして船を夾ましむ。滅明左に璧右に剣を操って蛟を撃ち殺し、さてこんな目腐り璧はくれてやろうと三度投げ込んだ。河伯も気の毒かつその短気に恐縮し三度まで投げ帰したので、一旦いったん見切った物を取り納むるような男じゃねーぞと滅明滅多無性にりきみ散らし、璧をこわして去ったと出づ。

    その頃右てい法螺談ほらばなし大流行と見え、『呉越春秋』には椒丘※(「言+斤」、第3水準1-92-1)しょうきゅうきん淮津わいしんを渡って津吏の止むるを聴かず、馬に津水を飲ます。津水の神果して馬を取ったので、※(「言+斤」、第3水準1-92-1)袒裼たんせき剣を持って水に入り、連日神と決戦してすがめとなり勝負付かず、呉にきて友人をたずねるとちょうど死んだところで、その葬喪の席で神と闘って勝負あずかりの一件を自慢し語ったとは無鉄砲な男だ。

    その席に要離ようりなる者あって、勇士とは日と戦うにかげを移さず、神鬼と戦うにきびすめぐらさずと聞くに、汝は神に馬を取られ、また片目にまでされて高名らしく吹聴ふいちょうとは片腹痛いと笑うたので、※(「言+斤」、第3水準1-92-1)大いに怒り、その宅へ押し寄ると、要離平気で門を閉じず、放髪僵臥きょうがおそるるところなく、更に※(「言+斤」、第3水準1-92-1)さとしたのでその大勇に心服したとある。

    その後曹操が十歳で※(「言+焦」、第3水準1-92-19)しょうすいに浴して蛟を撃ち退け、後人が大蛇に逢うて奔るを見て、われ蛟に撃たれて懼れざるに彼は蛇を見て畏ると笑うた。また晋の周処わかい時乱暴で、義興水中の蛟と山中の虎と併せて三横と称せらるるを恥じ、まず虎を殺し次に蛟を撃った。あるいは浮かびあるいは沈み数千里行くを、処三日三夜れ行き殺して出で、自ら行いを改めて忠行もてあらわれたという。

     これらいずれも大河に住んでよほど大きな爬虫らしいから※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)の事であろう。支那の※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)は只今アリガトル・シネンシスとクロコジルス・ポロススと二種知れいるが、地方により、多少の変種もあるべく、またいにしえありて今絶えたもあろう。

    それを※竜だりょう[#「(口+口)/田/一/黽」、189-4]、蛟竜また※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)と別ちて名づけたを、追々種数も減少して今は古ほどしばしば見ずなり、したがって本来奇怪だった竜や蛟の話がますます誇大かつ混雑に及んだなるべし。いわんや仏経入りてより、帽蛇コブラや鱗蛇を竜とするインド説も混入したから、竜王竜宮その他種々数え切れぬほど竜譚が多くなったと知る。

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    「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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