(蛇と方術4)
南欧や北アフリカからペルシア、インドに、今もこの迷信甚だ行われ、悪み蔑るどころか賞めてなりとも、人の顔を見ると非常に機嫌を損じ、時に大騒動に及ぶ事あり。故に邪視を惧るる者、ことさらに悪衣を着、顔を穢し痣を作りなどして、なるべく人に注視されぬようにし、あるいは男女の陰像を佩びて、まず前方の眼力をその方に注ぎ弱らしむ。支那の古塚に、猥褻の像を蔵めありたり。本邦で書箱鎧櫃等に、春画を一冊ずつ入れて、災難除けとしたなども、とどの詰まりはこの意に基づくであろう。
アイルランドには、古建築殊に寺院の前に、陰を露わせる女の像を立てたるものあり、邪視の者に強く睨まるれば火災等起る。しかるにその人の眼、第一に女陰の方へ惹かれて、邪力幾分か減散すれば、次に寺院を睥んでも、大事を起さぬ。すなわち女陰が避雷柱のような役目を務むるのじゃと。かの国人で、只今大英博物館人類学部長たるリード男の直話だった。
わが邦で、拇指を食指と中指の間に挟み出し人に示すは、汝好色なりという意という事だが、イタリア人などにそれを見せると、火のごとくなって怒る。それから殺人に及んだ例もある。自分を邪視力ある者と見定め、その害を避けんとて、陰相を作り示すと心得て怒るのだ。
仏経に鴦掘魔僧となり、樹下に目を閉じ居る。国王これを訪い眼を開きて相面せよといいしに、わが眼睛耀射て、君輩当りがたしと答え、国史に猿田彦大神、眼八咫鏡のごとくにして、赤酸漿ほど※[#「赤+色」、248-3]く、八百万神、皆目勝ちて相問うを得ずとある。
いずれも邪視強くて、他を破るなり。さて天鈿女は、目人に勝れたる者なれば、選ばれ往きて胸乳を露わし、裳帯を臍下に垂れ、笑うて向い立ち、猿田彦と問答を遂げたとあるは、女の出すまじき所を見せて、猿田彦の見毒を制服したのだ。
『郷土研究』四巻二九六頁、尾佐竹猛氏、伊豆新島の話に、正月二十四日は、大島の泉津村利島神津島とともに日忌で、この日海難坊(またカンナンボウシ)が来るといい、夜は門戸を閉じ、柊またトベラの枝を入口に挿し、その上に笊を被せ、一切外を覗かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けを待つ。
島の伝説に、昔泉津の代官暴戻なりし故、村民これを殺し、利島に逃れしも上陸を許されず。神津島に上ったので、その代官の亡霊が襲い来るというのだが、どうも要領を得ぬとある。吾輩一家でさえ、父の若い時の事を、父に聞いても分らぬ事多く、祖父の少時の事を、祖父に聞くと一層解しがたく、曾祖高祖等が履歴を自筆せるを読むに、寝言また白痴のごとき譫語のみ、さっぱり要領を得ぬが、いずれも村の庄屋を勤めた人故、狂人にもあるまじ、その要領を得がたきは、彼らが朝夕見慣れいた平凡極まる事物一切が、既に変り移ってしまったから、彼らが常事と心得た事も、吾輩に取っては稀代の異聞としか想われぬに因る。
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「蛇に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収