(蛇の足1)
蛇の足
六月号へ本篇三を出し未完と記しながら、後分を蛇の体同様長々と出し遅れたは、ちょうどその頃谷本富博士より、三月初刊『臨済大学学報』へ出た「蛇の宗教観」を示された。その内には自分がまさに言わんとする事どもを少なからず説かれおり、ために大きな番狂わせを吃い、何とも致し方なくて、折角成り懸かった原稿を廃棄し、更に谷本君の文中に見ぬ事のみを論ずるとして再度材料蒐集より掛かったに因る。
さて前項に『さへづり草』を引いて、出羽にトンヘビとて、人の後庭を犯し、これを殺す奇蛇ある由、トンとは古老の説に、非道交会を昔の芝居者などが数うるに、一トン取る二トン取るといったそうだから、南米にあるてふ男色蛇と同義の名らしい。
果してそんな水蛇が日本にあるなら、国史に見えた、今も里俗に伝うる河童は、本かようの水蛇から生じた迷信だろうという意を述べ置いたところ、旅順要港部司令官黒井将軍より来示に、自分は両国の橋の上に御大名が御一人臥って御座ったてふ古い古い大津絵節に、着たる着物は米沢でとある上杉家中に生まれた者で出羽の事を熟知るが、かの地にトウシ蛇という、小形で体細く薄黒く川を游ぐものをしばしば見た。
而して自分らの水游ぎを戒むるとて、母が毎も通し蛇が水游ぐ児の肛門より入りてその腸を食い、前歯を欠いて口より出ると言うを聞き怖じた。一度もその事実を見聞した事なきも、水死の尸は肛門開くもの故、水蛇に掘られたであろうと思うて、言い出したものか。トウシ蛇とは肛門より腹中へ通し入るの義らしく、トウシをトシと略書したるを、かの書にトンと誤写せるにあらずやと、とにかくかようの水蛇と話が、羽州に存するは事実だとあった。
これで古史のや、今俗伝うる河童は、一種の水蛇より出たろうてふ拙見が、まず中ったというものだ。全体水蛇は尾が海蛇のように扁たからず、また海蛇は陸で運動し得ず、皮を替えるに蜥蜴同然片々に裂け落ちるに、水蛇は陸にも上り行き全然皮を脱ぐ。
もっともその鱗や眼や鼻孔等が、陸生の蛇と異なれど、殺した上でなければ確と判らず、したがって『本草啓蒙』『和漢三才図会』など、本邦にも水蛇ありと記せど、尋常陸生の蛇がたまたま水に入ったのか、水面を游ぐ蛇状の魚を見誤ったのか知りがたかったところ、黒井中将に教えられて、浅瀬を渡る水蛇が少なくとも本邦の北部に産すと知り得たるは、厚く御礼を申し上ぐるところである。
海蛇の牙に大毒あるが、水蛇は人を咬むも無害と、『大英百科全書』十一版二十五巻に見えるが、十二巻にはアフリカに大毒の水蛇ありと載せ居る。かほど正確を以て聞えた宝典も、巻累なればかかる記事の矛盾もありて読者を迷わす。終始一貫の説を述べ論を著わすは難くもあるかなだ。まして本篇などは、多用の片手間に忙ぎ書くもの故、多少前後揃わぬ処があってもかれこれ言うなかれと、蛇足と思えど述べて置く。琉球の永良部鰻など、食用さるる海蛇あるは人も知るが、南アフリカのズーガ河に棲む水蛇も、バエイエ人が賞翫する由(リヴィングストンの『宣教紀行』三章)このついでに受け売りす。ケープ、カフィル人は魚を蛇に似るとて啖わずと(バートンの『東亜非利加初行記』第五章)。
back next
「蛇に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収