(異様なる蛇ども5)
『天野政徳随筆』には、京都の人屋に上り、たちまち雨風に遇った折、その顔近く音して飛ぶ物あり、手に持った鉄鎚で打ち落し、雨晴れてこれを見るに長四尺ばかりの蛇、左右の脇に肉翅を生じてその長四、五寸ばかり、飛魚の鰭のようだったと載す。プリニウスやルカヌスが書いたヤクルスてふ蛇は、樹上より飛び下りる事矢石より疾く、人を傷つけてたちまち死せしむというは、上述わが邦の野槌の俗伝にやや似て居る。
一九一三年再版、エノックの『太平洋の秘密』(ゼ・セクレット・オブ・ゼ・パシフィック)一三一頁に記された、南メキシコのマヤ人の故趾に見る羽被った蛇も、能く飛ぶという表示であろう。したがって蛇の霊なる奴は、飛行自在という信念が東半球にのみ限らぬと判る。上に述べた飛竜ちゅう蜥蜴を、翼ある蛇と訛伝したのは別として※蛇[#「縢」の「糸」に代えて「虫」、275-9]足なくして飛ぶなどいうたは、件の羽を被った蛇同様、ただ蛇を霊物視する余り生じた想像に過ぎじと確信しいたところ、数年前オランダ(?)の学者が、ジャワかボルネオかセレベスで、樹の間に棲む一種の蛇の躯が妙に風を含むようになりおり、枝より滑り落ちる際鼠や飛竜同然、斜めに寛々と地上へ下り著くを見て、古来飛蛇の話も所拠ありと悟ったという事を、『ネーチュール』誌で読んだ。
このついでに言う、蛇を身の讎とする蛙の中にも、飛蛙というのがある。往年ワラスが、ボルネオで発見せるところで、氏の『巫来群島篇』に図せるごとく、その四足に非常に大きな蹼あり、蹼はもと水を游ぐための器だが、この蛙はそれを拡げて、樹から飛降を便くという(第二図[#図省略])。予往年大英博物館で、この蛙アルコール漬を見しに、その蹼他の蛙輩のより特れて大なるのみ、決して図で見るほど巨きになかった。例のブーランゼー氏に質すと、書物に出た図はもちろん絵虚事だと答えられたから、予もなるほどことごとく図を信ずるは、図なきにしかずと了った。
しかるにその後ワラスの書を読むと、かの蛙が生きたままの躯と蹼の大きさを比べ記しある。それに引き合すとかの図は余り吹き過ぎたものでない。因って考うるに、蛙などは生きた時と、死んでアルコール漬になった後とで、身の大きさにすこぶる差違を生ずるから、単にアルコール漬を見たばかりでは、活動中の現状を察し得ぬのじゃ。
さて可笑しな噺をするようだが、真実芸術に志篤き人の参考までに申すは、昔鳥羽僧正、ある侍法師絵を善くする者の絵、実に過ぎたるを咎めた時、その法師少しも事とせず、左も候わず、古き上手どもの書きて候おそくずの絵などを御覧も候え、その物の寸法は分に過ぎて、大に書きて候云々と言ったので、僧正理に伏したという(『古今著聞集』画図第十六)。
この法師の意は、ありのままの寸法に書いては見所なき故、わざと過分に書くといったのだが、実際それぞれの物どもも、活溌に働く最中には、十二分に勢いも大きさも増すに相違ない。予深山で夕刻まで植物を観察し、急いで小舎に帰る途上、怪しき大きな風呂敷様の物、眼前に舞い下るに呆れ立ち居ると、変な音を立て樹を廻り行くを見ると、尋常の鼠で、初め飛び落ち来った時に比して甚だ小さい。この物勢い込んで飛ぶ時、翅が張り切りおり、なかなか博物館で見る死骸を引き伸ばした標品とは、大いに大きさが違うようだった。
さて欧州で名手が作ったおそくずの絵を見た内に、何の活動もなきアルコール漬を写生したようなが多く、したがってこの種の画は、どうも日本の名工に劣るが多く思われたは、全く写生に執心する余り、死物を念入れて写すような事弊に陥ったからであろう。故に西洋人の写生が、必ずしも究竟の写生でなく、東洋風の絵虚事が、かえって実相を写し得る場合もあると惟う。
この事は明治三十年頃、予がロンドンのサヴェージ倶楽部で、アーサー・モリソンに饗応された席で同氏に語り、氏は大いに感心された。その後河鍋暁斎がキヨソネとかいうイタリア人に、絵画と写真との区別心得を示した物を読んだ中にも、実例を出して、似た事を説きあったと憶える。
件のモリソンは、何でもなき一書記生から、奮発して高名の小説家となった人で、日本の美術に志厚く予と親交あったが、予帰朝後『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』十一版十八巻に、その伝を立てたるを見て、ようやくその偉人たるを知った位、西洋には稀に見る淡白謙虚な人である。
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「蛇に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収