(異様なる蛇ども1)
異様なる蛇ども
前項にいった、わが邦中国のトウビョウ蛇神が、体短く中太いというについて、必ず聯想さるるは、野槌という蛇である。『沙石集』に叡山の二僧相約して、先立ちて死んだ方が後れた者にきっと転生り、所を告ぐべしといった後、まず死んだ僧が残った僧の夢に見えて、我は野槌に生まれたといった。それは希に深山にある大きな獣で、目鼻手足なく口ばかりありて人を食う。これ名利を専らにして仏法を学び、口先のみ賢く、智の眼、信の手、戒の足一つもなかったから、かかるのっぺら坊に生まれたと出づ。
『和漢三才図会』には、これを蛇の属としいわく、
〈深山木竅中これあり、大は径五寸、長三尺、頭尾均等、而して尾尖らず、槌の柄なきものに似る、故に俗に呼びて野槌と名づく、和州吉野山中、菜摘川、清明の滝辺に往々これを見る、その口大にして人脚を噬む、坂より走り下り、甚だ速く人を逐う、ただし登行極めて遅く、この故にもしこれに逢わば、すなわち急ぎ高処に登るべし、逐い著く能わず〉。
『紀伊続風土記』に、ほとんど同様の事を記し、全身蝮のごとく、噛まば甚だ毒あり、牟婁郡山中稀に産す、『嶺南雑記』に、〈瓊州冬瓜蛇あり、大きさ柱のごとくして長ただ二尺余、その行くや跳び躍る、逢々として声あり、人を螫し立ちどころに死す〉とあると同物だろうという。
予が聞き及ぶところ、野槌の大きさ形状等確説なく、あるいは鼠様の小獣で悪臭ありというが、『沙石集』の説に近い。あるいは、長五、六尺で面桶ほど太く、頭が体に直角をなして附した状、槌の頭が柄に著いたごとしといい、あるいは長二尺ほどの短大な蛇で、孑孑また十手を振り廻すごとく転がり落つとも、馬陸ごとく環曲て転下すともいい、また短き大木ごとき蛇で大砲を放下するようだから、野大砲と呼ぶ由を伝え、熊野広見川で実際見た者は、蝌斗また河豚状に前部肥えた物で、人に逢わば瞋り睨み、大口開きて咬まんとする態すこぶる滑稽たりといった。
日高郡川又で聞いたは、この物倉廩に籠る事往々ありと。また大和丹波市近処に捕え来て牀下に畜うと、眼小さく体俵のように短大となり、転がり来て握り飯を食うに、すこぶる迂鈍なるを見たと語った人あり。写真を頼むと安く受け合れたが、六、七年も音沙汰を聞かぬ。
野槌は最初神の名で、諾冉二尊が日神より前に生むところ、『古事記』に、野神名鹿屋野比売、またの名野椎の神という。『日本紀』に、草祖草野姫またの名野槌と見えて草野の神だ。その信念が追々堕落する事、ギリシアローマの詩に彫刻に盛名を馳せた幽玄絶美な諸神が、今日藪沢に潜める妖魅に化しおわったごとくなったものか。
『文選』の和訓には、支那の悪鬼人間にありて怪害を作すてふ野仲をノヅチと訳した。それからちょうど古ギリシアローマの名神に、蛇妖となり下ったものあるように、野槌も草野の神から悪鬼、次に上述通りの異態な蛇を指す号と移ったものか。
back next
「蛇に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収