(蛇と財宝2)
ハクストハウセンの『トランスカウカシア』にいわく、ある若き牧牛人蛇山の辺に狩りし、友に後れて単り行く、途上美しき処女が路を失うて痛哭くに遭い、自分の馬に同乗させてその示す方へ送り往く内、象牙の英語で相惚と来た。
女言う、妾実は家も骨内もない孤児だが、ふと君を一日見進らせてより去りがたく覚えた熱情の極、最前のような啌を吐いたも、お前と夫婦に成田山早く新勝寺を持って見たいと聞いて、男も大いに悦び伴れ帰って女房にした。
ところが一日インドの道人遣って来り、その指環に嵌めた層瑪瑙の力で即座にかの女を蛇の変化と知ったというのは、この石変化の物に逢わばたちまち色を失うからだ。道人すなわち窃かにその由を夫に告げ、啌と思うなら物は試し、汝の妻にその最も好む食物を煮調わしめ、密と塩若干をその中に投じ、彼が遁れ得ぬよう固く家を鎖し、内には水一滴も置かず熟睡したふりで厳に番して見よと教えた。
夫その通りして成り行きを伺うとは知るや知らずや、白歯のかの艶妻が夜に入りて起き出で、家中探せど水を得ず、爾時妻頸限りなく延び長じ、頭が烟突から外へ出で室内ただ喉の鳴るを聞いたので、近処の川の水を飲み居ると判った。
夫これを見て怖れ入り、明日道人に何卒妻を除く法を授けたまえと乞うと、道人教えて、妻をして麪麭を焼かしめ竈に入れんとて俯くところを火中に突き落し、石もて竈口を閉じ何ほど哀願しても出でしむるなかれ、出ださば汝は必ず殺されんと言った。
夫またその通り行い、妻竈中で種々言い訳すれど一向心を動かさぬを見極め、ああ道人わが秘密を君に洩らした、彼はわが灰を獲んと望むのだ、君わが秘密を知ったと気付いたなら、われは君を活かし置かなんだはずだと叫んで焼け死んだ。
美妻の最後の無惨さに、夫悔い悲しむ事限りなく、精神魍魎として家を迷い出で行方知れずなってしまった。道人恐悦甚だしく、残らずかの蛇女の灰を集め、一切の金属を黄金に点化し、大金持に成らんしたそうだ。
エストニアの伝説に、樵夫二人林中で蛇をあまた殺し行くと、ついに蛇の大団堆に逢い、逃ぐるを金冠戴ける蛇王が追い去る。一人振廻り斧でその頭を打つと、蛇王金塊となった。サア事だと前の処へ還れば、蛇の団堆でなくて黄金ばかり積まれいた。因ってこれを分ち取り、その半を以て、寺一つ建てたという。
わが邦も竹林などに蛇夥しく聚まる事あり、蛇の長競べと俗称す。また熊野などに、稀に蝮が群集するを蝮塚と呼ぶ(『中陵漫録』巻十二に見ゆ)。なに故と知らねど、あるいは情欲発動の節至って、匹偶を求むるよりの事かと惟う。諸邦殊に熱地にはこんな事多かるべく、伏蔵ある所においてするもしばしばなるべければ、したがって蛇王宝玉を持つ説も生じただろう。
アルメニア人信ずらく、アララット山の蛇に王種あり、一牝蛇を選んで女王と立つ。外国の蛇群来り攻むれど、諸蛇脊に女王を負う間は、敵敗れ退く。女王睨めば敵蛇皆力を失う。この女王蛇口にフルてふ玉を含み、夜中空に吐き飛ばすと、日のごとく輝くと。これいわゆる蛇の長競べが、海狗や蝦蟆同様、雌を争うて始まるを謬り誇張したのだ。
『甲子夜話』八七に、文政九年六月二十五日、小石川三石坂に蛇多く集まり、重累りて桶のごとし、往来人多く留まり見る。その辺なる田安殿の小十人の子、高橋千吉十四歳いう、箱のごとく蛇の重なりたる中には必ず宝ありと聞くとて、袖をかかげ右手を累蛇の中に入れたるに肱を没せしが、やや探りて篆文の元祐通宝銭一文を得、蛇は散じて行方知れずと。田舎にては蛇塚と号づけて、往々ある事とぞとありてその図を出だし、径高さ共に一尺六、七寸と附記す(第一図[#図省略])。
竜蛇が如意宝珠を持つてふ仏説は、竜の条に述べた。インドのコンカン地方で現時如意珠というは、単に蛇の頭にある白石で、これを取ればその蛇死す。蛇に咬まれた時これをその創に当つれば、たちまち毒を吸って緑色となるを、乳汁に投ずれば毒を吐いて白色に復り乳は緑染す。かように幾度も繰り返し用い得という。
またいわく、老蛇体に長毛あるは、その頭に玉あり、その色虹を紿く、その蛇夜これを取り出し、道を照らして食を覓む。深い藪中に棲み人家に近づかず、神の下属なれば神蛇と名づく。サウシの『随得手録』二に、衆蛇に咬まれぬよう皮に身を裹み、蛇王に近づき撻ち殺してその玉を獲たインド人の譚あり。
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「蛇に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収