締まりをよくする方
マックス・ノールドの説に装飾は男女交会より起こるとあったようだが、南方大仙などはそこどころでなく、人倫の根底は夫婦の恩愛で、その夫婦の恩愛は、かの一儀の最中に、男は女のきをやるを見、女は男のきをやるを見る(仏経には究竟〔くきょう〕という)、たとえば天人に種々百千の階級があるが、どんなに下等な天人もそれ相応の天女を見てこれほどよい女はないと思うように、平生はどんな面相でもあれ、その究竟の際の顔を見るのは夫婦の間に限る。
それを深く感じ、忘れようと忘れられないから、さてこそ美女も悪男に貞節を持し、好男も醜女に飽きずに倫理が立って行くのだ。むかし深山を旅行する者が荷持ちの山がつの親爺にこんな山中に住んで何が面白いかと問うたところ、こんな不しつけの身にも毎夜妻の喜ぶ顔を見るのを楽しみにこんな稼ぎをすると言ったのも同理である。
しかしながら、右にいうようにトンネルの広いのには閉口だ。そこで、石榴の根の皮の煎じ汁で洗ったり、いろいろしてその緊縮が強くなることを望むが、それもそのときだけで長くは続かない。
ここに岡崎老が好みあるく大年増の彼処を処女同然に緊縮させる秘法がある。それは元朝に真臘国へ使いに行った周達観の『真臘風土記』に出ている。そのころ前後の支那の諺に、朝鮮より礼なるはなく、琉球より醇なるはなく、倭奴より狡なるはなく、真臘より富めるはなし、と言った。
真臘とは、今の後インドにあって仏国に属しているカンボジア国だ。むかしはひとかどの開化があって、今もアンコールワットにその遺跡を見る、非常に富裕な国だった。そのため支那からおびただしく貿易に行くが、ややもすれば留まって帰国しないから支那の損になる。
周達観が勅を奉じてその理由を研究に出かけると、これはどうしたことか、真臘国の女は畜生のように黒いそ鄙(そひ)な生まれで、なかなかお目留まりするような女はいない。それなのにそれを支那人が愛して、むかし庄内酒田港へ寄港した船頭は儲けただけ土地の娘の針箱に入れあげたように、貿易の利潤をことごとくその国の女に入れてしまう。だから何度行っても「お松おめこは釘貫きおめこ、股で挟んで金をとる」と来て、ことごとくはさみとられてしまい、財産を作って支那に帰る者は少ない。
このような黒女のどこがよいか調べると、大いに訳ありで、このカンボジア国の女はいくつになってもいくら子を産んでも彼処は処女と異ならず、締め付ける力ははるかに瓶詰め屋のコルク締めに優っている。
この国の風習としてお産をするとすぐ、熱くて手を焼くような飯を握り、彼処に詰め込む。一口ものに手を焼くというが、これはぼぼを焼くのだ。さて少しでも冷えれば、また熱いやつを入れ替える。このようにして一昼夜すると、一件が処女同然に締まりがよくなる。
「なんと恐れ入ったか、汝邦輔、この授文を百拝して固く秘中の秘とし、年増女を見るごとにまず飯を熱く炊かせ、呼び寄せて詰め替えやれ、忘れるなかれ」と書いて速達郵便で送ってやったところ、狂せんばかりに大喜びし、いつだか衆議院の控室でこのことを洩らし大騒ぎとなったとのこと。