和歌山
それなのに、我が国では学位ということを看板にするあまり、学問の進行を妨げることが多いのは百も承知のこと。小生は何とぞ福沢先生の他に今2、30人は無学位の学者がいてほしいと思うあまり、24、5歳のとき手に得られる学位を望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学して和歌山中学校が最後の卒業で、いつまでたってもどこを卒業ということなく、ただ自分の論文報告や寄書、随筆がときどき世に出て専門家から批評を聞くのを無上の楽しみまた名誉と思っている。
しかしながら、国許の弟たちはこれを喜ばず、小生が大英博物館で謹学すると聞いて、なにか日本の博覧会、すなわち昔あった竜の口の勧工場のような所で読書していることと思っているらしく、帰朝の後も15年も海外にいて何の学位をも得なかった者が帰ってきたと仏頂面をする。
昔も尾張の細井平洲は四方に遊学したが、法螺だらけの未熟な教師に就いたところで、さして利益がないと悟って、書籍を多く買い馬に負わせて帰り、それで自修してついに大学者となったと申す。
こんなことは到底、早稲田大学(昔の専門学校)ぐらいを出た舎弟にはわからない。ましてや平凡な昔の和歌山の女学校ぐらいを出たきりの、弟の妻にはもっとわからないので、この者たちが小生を嫌うことはなはだしく、というと学問方法上の見解の差異のようで立派だが、じつは小生は図らず帰朝したので、小生が亡父から譲られた遺産を舎弟が兄の破産の修繕を口実にして利用したのを、咎められはせぬかとの心配から出た小言と後に知れ申す。
このようにして小生が舎弟方に寄食して1週間にならないうちに、香の物と梅干しで飯を食わす。これは15年も欧州第一のロンドンで肉食を続けた者には堪えがたい難事であったが、黙っていると次第にいろいろ薄遇し、海外に15年もいたのだからなんとか自活せよと言う。
こっちは海外で死ぬつもりで勉学していたのが、送金が急に絶えたから、いろいろ難儀してケンブリッジ大学の講座を頼みにするうちに、南阿戦争でそのことも中止され、帰朝を余儀なくされたもので、弟方の工面がよければ何とぞいま一度渡英して奉職したいと思うばかりなのに、右のような薄遇で、小遣い銭にも事をかかす始末、何をするともなく黙っているうち、次の年の夏の日、小生が海水浴に行って帰る途中に小児らが指差して笑うのを見ると、浴衣の前が破れてきん玉が見えるのを笑うのだ。兄にこのようなざまをさせることよと言うと、それが気に入らなければこの家を出よと迫る。
その日はたまたま亡父母をまつる盂蘭盆の日なのに、このように仕向け、やむを得ず小生はもと父に仕えていた番頭の家に行き寄食する。しかし、このようでは世間の評判が悪いので、また甘言をもって迎えに来て、小生が帰って舎弟方にいると、秋に向かうにしたがい、ますます薄遇がはなはだしくなった。
そこで、ある日の夕方、大乱暴を行なってやったのに辟易して、弟も妻も子供も散り失せた。数日して、弟が、もと亡父存命時の第一番の番頭であったが大阪で10万円ほど拵えた者を伴って来た。この者は亡父の多大な恩を受けたのに、亡父の死後、親には恩を受けた子らには恩を受けないなど言い、大阪に留まって兄が破産したときも何の世話も焼かなかった者である。
よってその不義不忠を激しく責めたが、話を止められる。そして、この者のいうままに小生は父の遺産を数えさせたところ、まだ800円残っている、欲しければ渡そうと言う。このような不義の輩に一任して、そのなすままに数えさせてすら800円残っていると言ったので、じつは舎弟が使い込んだ小生の遺産はおびただしかったことと思う。
しかしながら、小生はそんな金をもらっても何も用途もないのでと言って依然舎弟に任せ、その家で読書しようとすると、末弟である者が26歳になるのに父の遺産を渡されず常々不平不満な様子でいるのを見て、これもまた小生同様中弟常楠にかすめ取られることを慮り、常楠にすすめて末弟にその父の遺産を分け与えさせ妻を迎えさせた。しかしながら、小生が家にいてはおそろしくて妻をくれる人はいない。当分熊野の支店へ行けとのことで、小生は熊野の生物を調べることが面白くて、明治35年12月に熊野勝浦港に行った。