福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)
福沢諭吉(1855〜1917)。江戸・明治期の思想家、教育者。慶應義塾創設者。
豊前国中津藩(大分県中津市)の下級藩士の出身でしたが、オランダ語を学び、英語を学び、アメリカやヨーロッパにわたり、帰国後、洋学の普及を唱え啓蒙活動を行いました。
主な著書は『西洋事情』『文明論之概略』『学問のすすめ』。
『学問のすすめ』の冒頭、
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。
福沢先生
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳5)
それに比べて亡父は悟りのよかったことと思う。ましてや何の学問もせず浄瑠璃本すら読んだことのない人にしては、今だ学んでいないといえども私はこれを学んでいると言おうか。むかしロンドンにいて、木村駿吉博士(この人は、木村摂津守といって我が国から初めて使節を送ったとき、福沢先生がその従僕として随行したその摂津守の三男で、無線電信を我が国に創設するときに大きな功績があったことは誰もが知るところである)が拙寓をを訪れたとき、このことを語ったが大いに感心されていた。この亡父無学ながらも達眼があった(故吉川泰次郎男なども度々その人となりを誉めていた)。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳16)
それなのに、我が国では学位ということを看板にするあまり、学問の進行を妨げることが多いのは百も承知のこと。小生は何とぞ福沢先生の他に今2、30人は無学位の学者がいてほしいと思うあまり、24、5歳のとき手に得られる学位を望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学して和歌山中学校が最後の卒業で、いつまでたってもどこを卒業ということなく、ただ自分の論文報告や寄書、随筆がときどき世に出て専門家から批評を聞くのを無上の楽しみまた名誉と思っている。
南方熊楠の手紙:"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳9)
この類のことは、修辞上、欧州文学にもやかましいことがあるのだ。さすがに福沢翁などの書いたものに3字の漢語ないのは、敬勤の他ない。
南方熊楠の手紙:"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳14)
法令が煩わしくなって人がますます乱れることは、後北条氏のことを引いて福沢翁もいった。
南方熊楠の手紙:"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳30)
世が哲学時代になることを望むのは、学者一般の希望である。ただし哲学時代といって、人ごとにロック、ヘーゲル、ハーバート、ニーチェ、プラトン、カントなどと古今の人の名を並べて、その残りかすで議論を戦わす世になることを望むのが真意であろうか。また親の意見を聞いた意趣晴らしにその手紙のてにをはを咎めるように、ドイツ語の訓釈をして福沢翁の心学早学文をやりこめたりすることをいうのだろうか。