田辺の大福長者
ついでにいう。貴下の井上円了の哲学館(※後の東洋大学※)の祝詞、また、誰の筆か知らないが高等中学林図書館の趣意書に、3字続きの語が多い(鉄健児などという類)。これは、威儀を尊ぶわが宗では、梵語音訳(半択迦(※はんちゃっか:両性具有者※)、へいれい多(※へいれいた:餓鬼※))の他は、不相応のことと存じます。
なんとなく後進のものを軽率にするのだ。この類のことは、修辞上、欧州文学にもやかましいことがあるのだ。さすがに福沢翁などの書いたものに3字の漢語ないのは、敬勤の他ない。
それからまだ面白いことがあるんだから、ついでにいう。ただし、右の新聞かきの破戒僧などに口軽く言うのは、心得あっての上のことにしてもらいたい(じつは仁者がこれを言う必要なない)。田辺に大福長者がある。その人は今の賢人で、一生に50万内外の金を作り、和歌山には今はこんな大きな家はない。子が多くて、いかにも和気あいあいとした家である。少しも贅沢なことはしない。
有名な歌人で、家に閉じこもって歌を詠み、戸外に少しも出ない。この世は仮り物、運というものは父も子に伝えることはできないとあきらめて、邸宅は広いが、修理せずに、田畑を広くかまえ、予から送る珍しい草などを植え、また有益な農業をして、娘などにもさせ、ひっそり暮らしている。
この人の家は紀州で、国造(くにのみやつこ)を除いて第一の旧家で、脇屋刑部卿が伊予へ渡るときも、南朝の味方をして、兵船300艘を仕立てて送った、と『太平記』にもある。旧藩主も年頭に第一にこの人の祖先に挨拶して、その次には大老に挨拶ということであった。
予の父が盛んであったときの交友で、故中井氏が田辺でぶらぶらしたとき、銀行へつかってもらった恩があるため、去年中井氏が帰朝するや否や、挨拶に夫婦連れで来て、右の人も大いに喜び、久々に戸外に出て、初めて海辺に出て興じたのだ。
そのとき、中井氏が予のことを話し出し、この者は希有のもので、センチ虫の研究に7年骨を折ったほどの奴であるといったところ、かの父は知っていた人であったが、長男は破産してしまったのは気の毒である、ああ、その人を見たいものだといったそうだ。そうこうしているうちに、小生が帰朝し、この広い県下で幼時の友は2人しかいないが、その1人がいま田辺で医者をしていると聞いて尋ねた。それから右の家に行ったところ、父存命のときは毎度馳走された礼であるといって、いろいろ世話になった。
この人に娘が多かった。長女は東牟婁郡第2,3の豪家、漁業その一群を養っているといわれるほどのものの妻である。次女は18歳ほどで、前日天覧になった石井という彫刻家が博覧会に出した象牙彫りの田舎娘稲扱きの顔と一分違わぬ、すこぶる穏やかな美女で、まことに愛嬌ある女で、おとなしく毎夜12時、1時まで夜仕事をし、予がその兄弟と飲んで帰るのを待っていて、下女の手をかけずに寝床を調えてくれる。和歌が達者な上、手蹟がすこぶる美しく、琴を弾き、布を織り、海を泳ぐことも西洋料理も心得ている者である。
予は次女と一言さえも話したことがない。それなのに、予がその家を辞して当山(※那智山※)に籠ってから、たびたび予からその父へ和歌を送るのだが、その返歌などを次女がしたためて来る。あまりに見事な手蹟な上に、真心あることばかり書いて来るから、予も記憶にまかせ、いにしえにあったおかしかったことなどを画に描き、また物語にし和歌を添えたりして贈っていた。