時に応じ機に応じ
大乗・小乗合わせて仏徒の数が多いからといって、何の役に立つこともない。ショーペンハウエルは、「ハリネズミが刺が多くて互いに近づかないうちは喧嘩はない。寒かろう寒かろうといって互いに集まり互いに暖まろうとするときに、刺が邪魔になって争いのもとになる」といった。宗教が同じだからといって何の役にも立たないものである。
ヌビアという国は堅固な耶蘇国である。アビシニアは牢頑な耶蘇教国である。それなのに、前者は欧人の旅行者をちっとも相手にせず、後者は前年イタリア人を4000人捕らえた。それが不平のもととなって、イタリアの前王は、小生帰朝前に弑せられた。トルコ人とペルシア人は、同じく回教徒であるが、互いに蔑視することがはなはだしく、同宗の敵1人を殺すのは異教の敵72人を殺す功徳があるなどといいふらす。
ロシアのキリスト教はローマ法王と最も近いものなのに、今ははなはだ仲が悪く、かえって新教国と仲がよい。つまり何の役にも立たないことであるのだ。それなのに、大・小乗合併とか何とか、それについては物入りもかかるのだ。物議も俗間に生じるだろう。
そして合併の見込みがあるものならば、最初から大乗・小乗とは分かれないはずである。とにかく、予は大乗は大乗で小乗と別、たとえ耶蘇教と同じく有神教だとしても(有神の性質はまったく別)、白猫が悪いのでも黒猫が正しいのでもなく、少しもかまわず自ら有神教であると称し(大日をたしかに尊拝する。小乗は別に何という拝するものなく、あてもなく、寂滅だけを願うようなのとはまるで違う)、また、釈迦不説か説かと問えば、人体身の釈迦は説かず、法身の釈迦が説いたのだ。釈迦は法身如来の権化として、我が教えのようやく一部を説いたのだ。あたかもユダヤ教の教えを、耶蘇が受け継いで耶蘇教を立て、回祖がさらに受け継いで回教を立てたように(現に回教では耶蘇をその聖人のひとりとしている)。
しかしながら、本来のユダヤ教は、この2者を偽物であるとして受け入れないから、今だなんじゃかんじゃと無用のことでもめ,平和慈愛を第一とすべき宗旨なのに、かえって互いに痛め合うことが絶えない。
ユダヤ人がこの2祖を認めないから、その人民は大禍を受けることが今だ止まない。そうして、英仏ともに今となっては耶蘇教で回祖を聖人としないのを、インド、アルジェリアの領地鎮圧政策上、はなはだしく悔いている。予が英国にあった日、仏国でこのことを申し立てた人がいた。真言宗で釈迦だけでなく梵天までも入れたのは、まことに和やかで緩やかな態度であるということができる。と、このようにいって笑ってやれというのだ。米虫にはわかったか。
我が大乗仏教は、はるかずっと昔からあったもので、拘留孫(クルソン)仏はこれによって拘留孫教を立て,迦葉波(カショウハ)は迦葉波教を立て,拘那含牟尼(カナカムニ)はカナカ教を立て,諸縁覚は少々の得た所を守り、現存の勝教はまたその一派で、釈迦はまたその幾分として釈迦教を立てた(小乗)。
いずれも時に応じ機に応じ、自分の得た所を広めて世を救おうとした教えのため、全体の大乗教(一切諸仏教とでもいうのがふさわしい)は、これを敵視しないばかりか、よくもそのいずれの部分をも応用したと喜ぶ。それは、三井の旦那が本家にあって,呉服店も繁盛、銀行も利息よくまわり、政府のかかりも仕損ないなく台湾の出店もよい機に投じたと喜悦するように、釈迦院、蓮華明王院などと、一部一部間に合い次第にこれを表に出して、喜悦しているのだ。どうして一部の教説が出たのが早いとか遅いとかを論じて本別両宅の争いをするだろうか。