禅批判
次に貴下は禅を喜ぶとか。弘法大師は、「当山は当然禅定しなければならない、云々」といってきた。その通りで、予もこれを知る。ただし真言宗でいう禅定とは静意観念して、宇宙の外を包む大なるものと己を結合し、無尽の安楽を取るということで,今日の棒で頭を叩いたり、宋元時代のべらんめい語、糞橛(ふんけつ)とか屎尿滾々とか、なんとかかんとか、同時代にできた『水滸伝』の李○、魯智深ら、博徒やこそどろの激語と同一のものを使って埒もないことを考案として舌戦するのは、そのこと、すでに不立文字(ふりゅうもんじ)というのに背くので、達磨の禅の本意ともまるで違っている。
俗語でいえば、さあ何かわからない、なぞをかけてみよ、即席に「よしこの」で答えてみせるというような落語家の根性である。このことは前年ロンドンへパリよりの仁者の状にも見え、「その威儀はすでに児戯となってしまっている」とある。
一方でその旨たるものは、何の智を積み識を積んでのことではない。そのため師匠である人はその得手勝手の我慢了見を開くというだけである。ややもすれば、「なんでもよい」、「学問はするに及ばない」、「悟ってみるとつまらないもの」、「フフンあんなことか」。
またその僧も、何の定見も胆智もないのに、広言を吐いて、「笑うに堪えたり黄面老子」とか、「目前に見証して見せる」とか、品玉つかいの法螺と異ならない。そうして、じつは学問どころか卑近なことさえ、やはり頓悟というわけにはいかず、三験が入るから、帰根斎のようなことが起こる。
近頃、有名な禅僧で、覚王殿の建築費をちょろまかし、妾を蓄えたものもあるとか。その徒の行いが悪いのでといってその教えをけなしてはならない。しかしながら、その徒の行いが悪いものが多く目立つときは、その教えの高下も実用の多少で判断することができるのだ。
一方でこの教えは、真言のような曼荼羅も何もないので,森羅万象、心の諸相、事の諸相名印の諸相、物界の諸相を理立てて楽しむというようなことは、もとより行なわれるはずがない。それならば、万事万物を研究して世に役立て、実際に人間を救うことが必要急務である今日の世界には当てはまらない。
要はひとりを潔くし、他はなんでもよい、自分さえよければよい、さて、そのよければよいも、究極の悟りは、なるようになれば、よいも悪いもないところがよいというような、8,9歳の小児にもわかりきったことに過ぎない。
人を押しのけ突きのけ、木戸賃を払わずに芝居小屋に入り、力のままに乱暴して、小屋を壊して外に出て,面白いも面白くないもないが、なんとなく酒に酔ったままにしたことだから仕方がない、咎める奴は野暮だ、旅の恥はかき捨て、浮世は3分5厘、間男は7両2分、それもなければ出されず,できることなら間男もやってもかまわないというような了悟に過ぎないのだ。
そんな悟りなら、稽古も修行もせずに、泥棒にでもなれば、じきにできることだ。もし貴下が、悟れば何も同じことだ、直指進入(じきししんにゅう)も談経講学も同一であるなどというならば、それはまことにそうであろう。ただし、そんな了見のものにとってだけそうなのだ。さて、そんな悟りなら,開かなくとも開いても同じことであろう。なぜかというと、何の外相にも現われることがないからである。また外相に現われても,世に望みのある悟りでも、世に帰するところがあることでもないからである。