真言と禅
だから真言の禅定と、鎌倉やそこらの喝一喝などの、立文字、不離文字の禅と同一というというのは、白も黒で智も愚であるというようなものある。常磐津の文句に「提婆の賢も槃特が愚(※だいばのちえもはんどくがぐ:提婆は賢すぎて釈尊に反抗して地獄に堕ち、槃特はあまりに愚かだったため釈尊の教えを一途に守って悟りを得た※)」といっているように、さて、それを語る芸妓が何のことも知らずに語るのも、知ったと同一ということであろう。そのようなときはいったい何の必要期待するところがあって、そんなことを一心不乱に(あるいは腐乱らしくして)、己も高い飯米を食い,弟子にも食わせて研鑽するのか。
じつはそんなことを修めるのも修めないのも、雨が降るのもなりゆき、風が吹くのもなりゆき、あるいは死ぬのもなりゆき、古えのきゅうりゅう仙のよう、また目前に今ここに臥している猫が明日を知らないのも知ったと同然なので、たとえ自分はなりゆきとしても、寺を建て、経を板行し、施米を募り,あるいは頼母子講を奉加するような、他人でその道を好まない者まで煩わして、さて右のような有無同一、何ごとも成り行き次第、調達の阿鼻落ちは、釈尊の双樹下の金足よりも真面目である。
お半長兵衛の迷死も、恵春比丘尼の自焚火定と同じ悟りであるというような、すなわち言うまでもないことを、「1は1で,2を2で割ったもの、100を100で割ったもの。また1を1乗したもので、1より0を引いたもの。1000を1000で除しても、10000を10000で除しても、1を雨ざらしにしても、天井に釣っても、思っても思わなくても、小便をかけても,質屋に置いても、書物の数として見ても見なくても、聞いても聞かなくても、人の頭に投げつけても、足で踏んでも、つばをかけても、鶯に食わしても、蟹に挟ませても、拝の中に1000年埋めても、それが999年と3ヶ月でも、それより5日多くても少なくても、また飯の数としても、男女交合の数としても、そのとき使ったちり紙の枚数としても、天皇陛下に聞かせ上げても、平将軍に聞かせても,鎌足公の墓前で数えても、ルソーの筆で上梓しても、また、巫女のことをむかしはイチといった、これも音は1である。ワゲのことをイチというのも、音は1である。何もかもどうしてもこうしても1は1である」。
右のようなわかりきったことを、阿呆陀羅経のように、いい並べ思い並べて飯米を費やすものを、仁者は何か見所があってこれを誉めないまでも、真面目なことを少しでもしているものということができるのか。ただ「1は1」と心得たら済むことではありませんか。
予は真言と禅は期待するところの(人間から見て)目的(実用上の)は同じことであるが、その期待されるものの観念は大いに違うと思う。すなわち数学上でいえば、一方は乗法、一方は除法を増して、1×2 と1/2 とより 1×20 と 1/20 よりだんだん 1×200,1/200 ; 1×20000000, 1/20000000……と増し、ついに∞(無究竟大)と 0(無涯限小)となるほどの違いであると思う。
口では言い表し得ないという度(デグリー)は相似ている。その性質は大いに違うことと思う。しかしながら、右のような狂人のような輩のことなので、それもそれでよい。それでも悪い、そんなことは言うまでもないといえば、それきりである。