科学の他に道はない
むかし太公は斉に封じられて、その政治を改める初めに、海上の処志の名のあるもの2人を誅して民人をおそれひれ伏せさせた。これは説高く信が厚いだけである。世間に何の実用なく、このようなものを誉めるときは、他のそれほどの器量ない者までこれを慕い、そのまねをするするものが多くなるのを怖れてのことである。
この世界の衆生に、形体なく飲食なくして暮らすことができるとすれば、まことに科学も何もいらない。もしそうでなければ、この他に僧が世間を実際に誘導して法灯を永続する方便も利用もないだろう。予に為政者をさせれば、太公のようにこのような無用の者は、刃で殺すまでもなくとも、勝手に自活してみよとして、餓死か還俗して奴隷にするだけである。
ゆえに汝米虫は今まさに知るべきである。金粟如来のいわゆる科学とは、今日の染物や左官、車力の学だけではない。また、動物の分類を論じたり、植物の細胞の数を読めというだけでもない。心、事、物の不可思議の幾分なりともを、順序正しく、早く、人の間に合うように片づけることをつとめるべきであるということである。祈祷が効くと思えば、その道筋を研究してよい。神通の実行を望めば、その方法を講じてよい。道筋さえ明らかになれば、いずれも科学として有用なのだ(予はこれらを無理空想の法螺だけとは思っていないことは上述した)。
ただ汝らが今日していることは、がやがやと理外の理などと自家衝突の言説を言い張り、俗人をくらまし、銭をちょろまかし、祖師を売り、寺号を穢し、宗旨において一点の益するところなく、国民の体面上、無数の飯米を徒食している。それだけでなく、前条所述のようなつまらぬ悪僧なども、寺の上り銭さえ満足に本山に納めれば、才子とか大竜とか称してこれを誉める。
予は嫌になってくるから、近々また洋行しようかとも思うのだ。今度洋行したら姜維(きょうい)が言ったように(予は本草学者だけに)、ただ遠志あるべし、当帰あることなしじゃ。汝のようなのは、少々事理を理解し、満足とまでいかなくとも、なんとか実用と教理との円融ぐらいは図ることができようが、なお不二不一とか、自我我入とか、狂言の文句のように、何千年も同一の閑言語を繰り返し、人の言うことを聞き端折って、理由もなしに、科学は浅はかとかなんとか言って来る。
予は科学の厚薄浅深を論じているのではない。ただこの他に、今日宗旨が実用を(例の葬式屋や経読み、諷誦(※ふうじゅ,ふうしゅう,ふじゅ:声を出して読むこと、特に、経文などを読むこと※)などの芸業の他に)発揮すべき道はないと言っているのだ。自我我入や二而不二などのことは、否が応でも、坊主になった上は、それで飯を食わなければならないから、芸者の三絃、ちょぼくれの木魚じゃ。それを捨てよというのではない。