"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳4)

"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳)

  • 1 姪のこと
  • 2 イタリアの信神者の話
  • 3 英国紳士
  • 4 礼式
  • 5 聞きたがり
  • 6 春画のことなど
  • 7 人を避けるための春画
  • 8 春画の効能
  • 9 田辺に大福長者
  • 10 チバルリー(騎士道)
  • 11 高子
  • 12 愛子
  • 13 飲酒
  • 14 小乗仏教
  • 15 大乗仏教は望みあり
  • 16 時に応じ機に応じ
  • 17 禅批判
  • 18 真言と禅
  • 19 真言宗は今の世に
  • 20 科学教育
  • 21 不思議
  • 22 萃点
  • 23 tact
  • 24 発明というのは
  • 25 夢のお告げ
  • 26 真言徒がなすべきこと
  • 27 科学
  • 28 科学の他に道はない
  • 29 念仏宗
  • 30 科学は真言の一部古伝の功
  • 31 古伝の功
  • 32 科学教育をすすめよ
  • 33 自然の理
  • 34 人間の想像の区域
  • 35 二仏三仏

  •  礼式



     たとえば、この地方では今でも人に飯を差し出すのを礼とする。予の弟の支店が勝浦という所にある。予がたびたび用事で行くと、大急ぎで白米を買って来て炊き、魚を選んで高値を出して買って来て食わせる。その地第一の豪門は、予の弟の妻の兄の支店である。そこには人も多く、味噌がある(予は味噌を食うことを好む。他人と違って、何もこれといって食べ物に好き嫌いはない)。

    だからその方に行き、味噌をもらって食う。それなのに予の弟の番頭であるものがこれを恨む。せっかく炊いたものを食ってくれないという意味だ。しかしながら、じつは予は用事がすこぶる多く、かの地へなにか薬品などを取りに行く間でも、この地で採った植物が干上がるなどことがある。だから腹が減ったら、有り合わせにうどんのようなものを1,2杯食い、また、身体には味噌がよいため、味噌をなめて済ますのだ。

    それを右の番頭は主人の兄なのでといって右のようにこしらえる。しかしながら、その店は手狭で忙しいうえ、子供が多く、泣き通しで、なかなか飯を落ち着いて食えないのだ。だから他へ行って食う。いわば双方の便宜である。それを古くからの因習で、これを恨みとするのだ。

    このようなことははいわゆる時代遅れな上に、ちょっと察しの利いた者ならば、わざわざ白米を買って忙しいなか炊くよりは、この人は至って淡白な上に、ものにかまわず、用事を早く済ますことだけを好む人なのでとして、うどんとかソバとか、また味噌好きと知れば、別に本人の好まないものを、たとえ礼儀だからといって、魚肉などを買って食わすには及ばない(本人がなんとも思わないことなので)。

    いわゆる「その志を察しその行いを見る」で、なんとか軽い仕方もありそうなものである。スペインは礼法の正しい国で、ストーブの火が盛んに燃えすぎたのに、消すべき役人がその場にいないといって傍観するうちに、王の具合が悪くなり、それが原因で亡くなったことがある。孟子のいわゆる「兄嫁が溺れようとしているときは抱いて救うべし」というのも、この類である。

     いま、その一例として日本で急がなければならないことを言おう。

    我が国の人は、これは嘘であろう、それは嘘であろう、はなはだしくは、今こんなことを君が言ったが、それはほんとうか、などの言葉を何気なく言い出す人が多いのに、予はこの度帰朝して、よほど嘘が多いことと呆れた。

    礼式の細かい国はじつは無礼の者が多く出ると、マファッフィーが言ったことも思い出される(前日高藤師から『曽我物語』を借りて読んだが、五郎、十郎は、人にものを言うときはまことに礼儀正しい。それと同時に、ちょっとしたことで腹が立つといって、厚恩ある叔父母、養父同様の人らに八つ当たりするが、それがはなはだひどい)。

    だから、これらの人に訪れられる度に、用心して言わなければ、たちまち嘘つき、法螺吹きなどと言う。総じて人間の言葉は不十分なもので、現に小生などは自国へ20年経たないうちに帰って来て、馬力強いとか、ずぼらをやるとか、わからない語を多く聞く。それと同時に、こっちの言うことも若い人には通じない。

    その上、西洋と事情も違って、だからといって望月小太などの流儀で、半解の英語まじりで言うのも、人を見下すのに似ている。そのため、思いつき次第に翻訳して言うことも多い。それも、他人の言うことが、平生書物で見たものと違うからといって、たちまちに法螺などと言う。

    よく考えてもみよ。自分のこの身一代の履歴30年間のことのうちで、何かひとつ確実に人に語り得ることがあるか。日記を読み返しても、大いに忙しいときは日記などをつける暇はないので、日記などにに書いたことは、用の少ない無駄なことばかりである。大は忘れて小は記すというものである。だから詳しく調べられたら、自分の口上は、ひとつとして正しく伝えたものはなく、みな多少は法螺であろう。

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    「"南方マンダラ",「不思議」について,その他」は『南方熊楠・土宜法竜往復書簡』『南方熊楠コレクション〈第1巻〉南方マンダラ』 (河出文庫)に所収。

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