礼式
たとえば、この地方では今でも人に飯を差し出すのを礼とする。予の弟の支店が勝浦という所にある。予がたびたび用事で行くと、大急ぎで白米を買って来て炊き、魚を選んで高値を出して買って来て食わせる。その地第一の豪門は、予の弟の妻の兄の支店である。そこには人も多く、味噌がある(予は味噌を食うことを好む。他人と違って、何もこれといって食べ物に好き嫌いはない)。
だからその方に行き、味噌をもらって食う。それなのに予の弟の番頭であるものがこれを恨む。せっかく炊いたものを食ってくれないという意味だ。しかしながら、じつは予は用事がすこぶる多く、かの地へなにか薬品などを取りに行く間でも、この地で採った植物が干上がるなどことがある。だから腹が減ったら、有り合わせにうどんのようなものを1,2杯食い、また、身体には味噌がよいため、味噌をなめて済ますのだ。
それを右の番頭は主人の兄なのでといって右のようにこしらえる。しかしながら、その店は手狭で忙しいうえ、子供が多く、泣き通しで、なかなか飯を落ち着いて食えないのだ。だから他へ行って食う。いわば双方の便宜である。それを古くからの因習で、これを恨みとするのだ。
このようなことははいわゆる時代遅れな上に、ちょっと察しの利いた者ならば、わざわざ白米を買って忙しいなか炊くよりは、この人は至って淡白な上に、ものにかまわず、用事を早く済ますことだけを好む人なのでとして、うどんとかソバとか、また味噌好きと知れば、別に本人の好まないものを、たとえ礼儀だからといって、魚肉などを買って食わすには及ばない(本人がなんとも思わないことなので)。
いわゆる「その志を察しその行いを見る」で、なんとか軽い仕方もありそうなものである。スペインは礼法の正しい国で、ストーブの火が盛んに燃えすぎたのに、消すべき役人がその場にいないといって傍観するうちに、王の具合が悪くなり、それが原因で亡くなったことがある。孟子のいわゆる「兄嫁が溺れようとしているときは抱いて救うべし」というのも、この類である。
いま、その一例として日本で急がなければならないことを言おう。
我が国の人は、これは嘘であろう、それは嘘であろう、はなはだしくは、今こんなことを君が言ったが、それはほんとうか、などの言葉を何気なく言い出す人が多いのに、予はこの度帰朝して、よほど嘘が多いことと呆れた。
礼式の細かい国はじつは無礼の者が多く出ると、マファッフィーが言ったことも思い出される(前日高藤師から『曽我物語』を借りて読んだが、五郎、十郎は、人にものを言うときはまことに礼儀正しい。それと同時に、ちょっとしたことで腹が立つといって、厚恩ある叔父母、養父同様の人らに八つ当たりするが、それがはなはだひどい)。
だから、これらの人に訪れられる度に、用心して言わなければ、たちまち嘘つき、法螺吹きなどと言う。総じて人間の言葉は不十分なもので、現に小生などは自国へ20年経たないうちに帰って来て、馬力強いとか、ずぼらをやるとか、わからない語を多く聞く。それと同時に、こっちの言うことも若い人には通じない。
その上、西洋と事情も違って、だからといって望月小太などの流儀で、半解の英語まじりで言うのも、人を見下すのに似ている。そのため、思いつき次第に翻訳して言うことも多い。それも、他人の言うことが、平生書物で見たものと違うからといって、たちまちに法螺などと言う。
よく考えてもみよ。自分のこの身一代の履歴30年間のことのうちで、何かひとつ確実に人に語り得ることがあるか。日記を読み返しても、大いに忙しいときは日記などをつける暇はないので、日記などにに書いたことは、用の少ない無駄なことばかりである。大は忘れて小は記すというものである。だから詳しく調べられたら、自分の口上は、ひとつとして正しく伝えたものはなく、みな多少は法螺であろう。