科学
むかしゼノンはストイック哲学の祖であった。その所説は、人間はこの世を苦と知ってその苦を辞せざるにあれ、とのことだ。しかしながら、この人は修養が到っているからであろうか、常に悠々として楽処あり、無間の地獄に堕ちて、なお瑠璃の大河で浴するようであった。その徒はみなそうである。
これに対してエピクロスは、エピキュリアン派の鼻祖であった。その所説は、人間はみなこの世にあって楽しみを期待するべきだ、楽しみさえすれば十分である、というのだ。そうして、この人は大病にかかり、他の人ならば七転八倒大叫喚すだろうに、これまたひとつの楽しみである、この境遇に臨まなければこの楽しみがあろうかといって、悠々として逝った。
これらはその教えとするところは異なるが、じつに言、行、志の三者の融和円通の美事といわざるを得ない。今、我が徒の行いを見ると、大いにこれと異なるものがある。その委細は、言うのが憚られるので言わないが、思うに仁者もまたその同輩についてこれを悟るだろう。
なぜかというとこの輩の教えとするところは、土台からしてすでに二而不一、口では梵天宮あるいは諸応身、仏尊までの無常を説く。そうして、一方には化け物の番付のようなものを作り出して、皇基(※天皇が国家を治める事業の基礎※)をして万世不動ならしめようとする、という。
口では「美婦は血を盛る袋である」と嘲る。そうして、行なうところは帰根斎のようなことが10中8、9である。口では頓悟と説く、行いは迷乱する。口では淡白と説く、行いは俗人の高利貸しに劣る。口では弘済と説く、行いは世間の厄介者である。これはその土台下の土台であるこころの持ちように表裏があるからである。科学の必要は認める、そうして一方では科学などは教旨に必要ないという。
仁者は、今日の社会が暗闇であることをいう。その暗闇は主として何から起こるのか。衣食足らず、倉に穀物が満ちない。国税は重く、交通が正しくない。民に商工農の理に詳しいものがなく、上に弘済計画の士がいないから出たのではないのか。
芸妓であるものがいて、娼妓であるものがいる。この輩はどうして好んでこれをなすだろうか。その父母はまた何を望んで、喜んで子女を売るだろうか。食足らず衣乏しければ、われはまだその芸娼妓のお召しの着物を着ることができるのを祝いするものである。行いの正しいものが、内ではオマンマも食いかねるときはどうしたらよいか。
女人が道で小便するのを国辱という人がある。その通りで、予も欧米の大市街の人に対してこっれを恥ずかしく思う。しかし、これを禁じたらどうなるのか。女人に小便したいときには用事に出るなと止めなければならないのか。また、むやみに道端の人家に走り入れというべきだろうか。この輩がどうして好んで立ち小便するであろうか。
我が国は貧しく更衣所(ラヴェートリー、英国などには市街に更衣所といって、男子のと別の内から戸を閉められる婦女の便所を石造りで立ててある)を立てられない間は、子宮病者を億万人生じさせるまでのことで、道端の立ち小便を禁じても、害ばかりで益がない。この一事のようなのは、我が国論の道徳における場合と実用における場合とが(婦人の膀胱は弱いものである。ゆえに男子に比べてしばしば小便しなければ、たちまち病となり、難産、死亡などとなる)反馳背乖しているはなはだしいものとして、予はこれを二通りに説教する俗僧らのために気の毒に思う。
ましてや世がますます激しく動くので、そうして道徳(行儀、礼作法も道徳の一部である)と実例とが相反することの上述のようである。そうして、仁者らは、ただ唐朝の故経、晋訳の古書を読み、その時代に大実用のあった諸尊を敬礼するだけで、今の世に大実用のある科学(真言の世間物質開化上の応用)を排除する。