tact
現に今の人にも tact というのがある。何と訳してよいかわからないが、予は久しく顕微鏡標本を作っているが,同じ薬品、知れきったものを、ひとりがいろいろと細かく量って調合して、よい薬品だけを用いてもすぐに破れる。予は乱暴で大酒などして無茶に調合し、その薬品の中に何が入ったかわからず、また垢だらけの手でいじるなど、まるで無茶である。けれども、久しくやっているからか、予の作った標本は破れない。
この「久しくやっているから」という言葉は、まことに無意味な言葉で、久しくなにか気をつけて改良に改良を加え、前回失敗した事柄を心得おき、用心して避けて後に事業が進むなら、「久しくやったから」という意味はある。ここで予が言うのはそうではない。何の気もなく、久しくやっていると,無茶は無茶ながら事が進むのである。
これはすなわち本論の主意である、宇宙のことは、よい理にさえつかまえ当れば、知らなくても、うまく行くようになっているというところである。
だから、この tact(何と訳してよいかわからない)は、石切り屋が長く仕事をするときは、話しながら臼の目を正しく実用あるように切るようである。コンパスで測り、筋を引いて切ったとしても実用に立たないものが出来る。熟練と訳した人がある。しかし、それでは多年を費やした、またはなはだ勢力を労した意味に聞こえる。
じつは「やりあて」(やりあてるの名詞とでも言ってよい)ということは、口筆で伝えようにも、自分もそのことを知らないから(気がつかない)、何とも伝えることができないのだ。
けれども、伝えることができないかあら、そのことがないとも、そのことが役に立たないとも言いがたい。現に化学などで、硫黄と錫と合わせ、窒素と水素と合わせて、硫黄にも正反し、錫にも正しく異なり、また窒素とも水素ともまるで異なる性質のものが出ることが多い。窒素は無害であり,炭素は大栄養品である。それなのに、その化合物であるシアンは人を殺す。
酸素は火を盛んにし、水素は火にあえば強熱を発して燃える。それなのに、この2者を合わせてできる水は、火とははなはだ仲が悪く、またタピオカという大滋養品は病人にはなはだよいものなのに、これを産出する植物の生の汁は人を殺す毒がある。
だから、一度そのことを発見して後でこそ,数量が役に立つ(じつは同じことを繰り返して、前の実験と少しも違わないために)。が、発見ということは、予期よりもやりあての方が多いのだ(やりあての多くを一切まとめて運という)。
比例に一例を言おう。鳥の卵が殻が堅いのは、中の卵肉を保護するのがその働きであることは誰も疑わない。また落ちれば割れる心配があらからこそ堅いのだ。しかしながら、この経験というのは、繰り返すことができない。なぜかというとちょっとでも破れれば全体が死ぬからである。だから自然に、または卵自身の意思で改良を重ねたのではない。
なんとなくやりあてて次第に堅くなったのだ。まことに針金を渡るようなことである。偶然といおうにも偶然ではない。偶然が幾千万つづくものではないからである。だから、筋道のよいやつにやりあてて、離さなかったという他ない。