大乗仏教は望みあり
近く歴史をひもといてみよ。支那諸朝、ボッカラ、梵衍那(ぼんえんな)、インドの諸邦、中央アジアの諸邦、盛んになったり衰えたりすることはあるが、それはやむを得ないこととして、大乗の行なわれた国は、威勢が強く、諸事が盛んに行なわれ、諸工が興り、偉人が輩出した。それに比べて南方小乗の国は、なんとなくぶらぶら生存を続けてきたというだけである。
天地の目から見て、今年も春がきて菜種が咲き、今年も秋がきて鹿が鳴くというようなことだけである。これはそのことに理由がないのではない。むかしアレクサンダー大王が勇ましくインドを攻め、世界を平定しようと打ち立つとき、一切の珍宝所有物を友人諸将に分与した。大将軍はこれに問うて、「王は所有物を一切をひとつひとつ人にやって、自分は何を残し持って大国を従えようとするのか」。王はただ答えていった、「ただ望みあるのみ」と。
小乗には望みがない。期するところが無楽を楽とするからである。蠟燭の火が明るく、珍しい食物美味い料理があり、美姫美童が乱舞するなかで、飽きたからといって、早く蠟燭が消えたら休まれる。また暗がりでなにか面白い好きなことでもできるかも知れないというようなことである。
大乗は望みがある。なぜかというと、大日如来に帰して、無尽無究の大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を楽しむところが尽きないからである。たとえば顕微鏡1台を買ってそれで見ることだけでも一生楽しむところが尽きないように。
涅槃というのは消極的な言葉である。この世にいてすでに涅槃をのぞむ。涅槃に入れば、また涅槃を飽き厭うてしまうだろう。また、この世に飽きるというのも、実際お迎えがくれば延期を乞うような自家衝突のぶらぶらの不定の思いに過ぎない。だから、大乗徒が小乗徒と同視されるのを喜悦するなどは、小生は最も同意できないところである。
予の友人に、釈宗演の弟子で田島担というのがいる。これは当国の豪商故浜口梧陵の長男である。ケンブリッジに留学したが、都合があって、中途で帰った。船中で洋人がこの人に仏徒は何人ほど世界にいるのかと問うた。これはじつは担氏の気に入られようとしていったことで、仏教は最も世界中に数多いと答えるのを待っていたのだ。それなのに担氏は答えて、「ちっとも知らないが、宗旨の深い浅い、広い狭いは、人数や寺の数でわかるものではない」といった。まことに名言である。
この熊野地方はまことに徳化の行き届いた所で、今でも予が汚い格好をして深い山中に入ると、炭を焼く男、柴を刈る女、みなハチマキをはずし、腰を屈めて挨拶する。また、人間が荒々しいのに似ず、戸障子を開け放って外出しても、室内に立ち入る小児もない。そして3,4里隔てて巡査がひとりいるだけである。
これはかえって徳化の行なわれたのを表すものであるのだ。前述の禁戒の多いほどその教えはつまらないのと同じく、都市は悪人が多く行儀の悪い所ほど、警察なども忙しいものである。寺院なども楚の通りである。