英国紳士のことなど
貴書によると、なにか予は春画とかを弄し、人に春画談などをし、酒ばかり飲むとか。金粟王如来とも自称する正遍大智のもの、どうしてそんなことぐらいにみずから気付かないだろうか。気付かないだけでなく、そのこれを仁者に告げた者の名まで知っている。
この者はいわゆる小才子で、田辺で新聞など出し、「新方丈記」ではないけれども、なんとか自分のよしみ書数とか、自分が幼いときの素養とか、そんなことを書きちらし、あに然り、それあに然らんや風の文章で、蛙や蟹の上に目に付いている向こう見ずで、人を虚喝取材し、また芸妓に子を孕ませ、ことに米屋の43歳ほどの妻(夫あり)と通じ、それからその寺は旧藩主の菩提所で、今だ馬鹿者が多く病気なのに医療も受けずに籠りに来る。
その上がり高が多いといって、寺の料物で法律稽古に上京していた(寺料を私用して銅湯を呑まされ、またナマズになった話が『宇治拾遺』に出ている。西洋にもこのようなことを多く伝える)。はなはだしいのは、その父が寺の下の庵に置いてくれというのを拒み、法廷に訴え悶着した痴れ者である。
ご存知のように、小生は西洋、ことに落ち着いた英国に久しく留まり、そのいわゆる紳士風を仰ぐものである。
(ビスマルクは、さしもの豪傑、強情一点張りの人であったが、老後、ドイツが英国に及ばないのは、紳士風がない一事であると嘆息した。マファッフィーは、英国と不和の絶えないアイルランド人であるが、それでも英国を称えて「英人は紳士として世界を横行しうるのは、古アテネ人がギリシアでもてはやされたのに異ならない」と言った。
春秋のころ、魯が弱いながらも大一流の名があったのも、このようなことではないか。数百年の後も、項羽のために義を守って降らず、漢高がこれを囲んだが、本を読む声がそれでも絶えなかったのを感心した。
某が「孔子の言葉は当世に行なわれないが、その言葉がまったく用いられたとしても、その結果は今日の英国に及ばず、似ただけであろう。その君子といったのが、すなわち今日の英国紳士のことに過ぎず、じつは及ばないのだ」)
英国の紳士というものは、衣服がよれよれになっても、それでもシャツの汚れているのを恥とする。人といやしくも交わらない。予はかつて500人ほどの中で人を斬ったことがある。さて静かに見やったところ、その中で何かの機会でこれを見ている者は、3,4人に過ぎなかった。
この風はじつに仏の大威儀といえどもこれには及ぶまいと感嘆した。山本達雄もかつてこのことを予に話したことがあった。だから、いやしくも人と言葉を交わさない。ただし、いったん交わりを結ぶ以上は、見捨てることはない。すでに述べたディキンズのようなのが、その一例である(このことは後日会って話すときに、詳しく言おう)。
それなのに、我が国の人は、米国など雑種混交の国情を察せずに、その風習を習い、懇親会とか歓迎会とか、町人も士も、貴族も幇間も、えたも成り上がりも相交わり入れ混じって、粗雑無用のでたらめのことを話し、終日対座しても何の得るところもなく、川船の乗り合い同様で、ちょっとしたことを尋ねても返事もせず、知らなければ知らないと断ってもくれず、物を贈ろうとしても受け取りには来ず、たまたま話したことは、寝から葉の先まで取り探して、これは嘘だろう、これは法螺であろうと、公けに吹聴し評論する。
予は前日高藤師から転送させた状の中で、バックルが「道義学というものはどんなに研究して新しいことは出ず無用のもの」と言ったのを反論して、「1000年研究したとしても、親の頭を張ったらよいとか、姦通するほどよいとかいうことは出ない。出ないが、詳しいそれぞれの場合においての心得処分法については、時代によって変わることはあるだろう。これを心得ないときは、身に損があるだけでなく、社会の進行を阻害することがあるだろう」といった。