愛子
まだ
面白いことがあるんだ。紀州の田辺というのは奇妙な所で、町家に入れ込んで芸者屋がある。だからどこへでも入って来る。猫というが、本当に猫同然でちょっとも違うところがない。すなわち、件の破戒僧、予と一面識もなしに予のことを仁者に言ったものなどには、はなはだ都合がよい。
それだから、予は芸妓などというものと顔を合わせたこともないが、久しぶりに飲むからといって、友人が申し合わせ、予が酒を飲みながら書物を読んでいるところへ、同地で第一というものが3名来た。そこで読書も周りの支障になるから止めて、予は元来音曲が好きなので、「あれ見やしゃんせ与三郎、30余所のかすり疵」という踊りを所望した。
ところがその踊りは舞妓のすべきもので、芸者がすべきではないけれども、金粟の仰せだから、同地で有名な妓杉村愛子というものが踊った。予は幼くして故郷を出て、このようなことは見るのが初めてだから、今一度所望し、そしてあまりに上手だから褒美をやった。
それから、同地はこのようなものは出入り自由な所で、褒美をいただいた礼と称して宿に来たから、その者の身の上の話を聞くと、予の亡父の旧知で、陸奥伯爵の執事をしたもの(この世話で楠枝を横浜の商人へやった)の弟にならず者がいる。去年アルコールの倉で火を発した怪我で焦げ死んだ。この者は世にいう判人(はんにん)で、以前幼年の娘をかどわかして芸妓などに売ることを仕事としていた。それに養女にもらわれて、今いる家へ養女と称して売られたのだ。
この者の父は伊賀上野の士族で、維新の直後にはなはだしく行き詰まり、妻子離散しようとするとき、子供をみな人の養子にやった。そして今は大阪でちょっとした洋服仕立てをして満足に暮らしているのだ。男子2人も宣教師として食っているのだ。
この女は顔は 際立った方ではないが(24,5)歌舞、吹弾、抹茶、礼式から、俳句ときたらうまいもので、まことに磊塊の風がある。そのため収入も多いから金を若干貯えて、右の服仕立て屋をしている父に送り、自活するほどの金はあるから、なにとぞ表向き今の妓の抱え主へ掛け合い引き取ってくれといいやったところ、父が言い出した言葉は、まことに耶蘇流儀である。
父の言葉は「芸妓というのは賤業である。一度そんなものになった身は、霊魂がすでに腐敗したから、身を終えた後も、エホバの天国に詣りがたい。よろしくソドムの塩辛い実を味わい、ゴモラの死海に沈んで、最後の審判が来るまで待て」というような、わけのわからないものである。そして金を突き返して来る。
この妓が答え、「ならば心もない、この幼かった身を、なぜ芸妓になるような成り行きを配慮せずに、判人するようなものに養子にやったか」という。
父が答ていう、「そのときは上帝の意思で、なんともしかたなく、汝だけでなく、いま宣教師している2人の男子も、人に養子にやった。芸妓にすると知っていれば養子にやらなかった。まことしやかに素人に育てるようにいうから、やったのだ。この父の知ったことではない」と。
そんなことで、この妓の仕事を辞めても、まじめなことはできない。できないのではなく、する土台であるはずの父が右様の分からず屋であるのだといって、悲しむ。金粟王も、流離転変、いろいろの目を見たので、大いにこれを悲しみ憐れみ、そのころ大阪の豪商が今西某からくれた仏国のバイオレットの高価な香水を1瓶を、名残りとともに惜しげに与えるといって、有り合わせの短冊に、
めぐりあふた流れはなんの因果経
白楽天の「琵琶行」を1000年の後に自ら見る心地がして、おかしくもまたあわれでもありました。「津の国もなにはのことやのりならぬ、遊びたはむれまでとこそきけ」と、書写上人を一本やり込めた宮本という遊女のこともあるので、これもまたひとつの法楽であると知りたまえ。