夢のお告げ
これらは、例の心理学者にいわせれば、小生が帰朝後その土地に遊んだことがなくても、幼時、吉田村という土地は知っていた。だから、なんとなくその辺の水がフロリダの右の藻を生じた水と同一であるのを感受していて,さてそんなことすきゆえ、帰朝して吉田村を思い出して、自然そんな藻がありはせぬかと思って夢に見たのだ、というだろう。この言葉に理があるかないかは、右の文をとくと味わって貴断に任すだけである。
さて、そんなら一例をまた引こう。今度は本月5日の夜、クラテレルス(※図あり。図は本で見てください。『南方熊楠コレクション〈第1巻〉南方マンダラ』 (河出文庫)303頁)という菌(画で見たことがある。実物は、画よりはるかに大きいのに驚く。後に画を調べると縮図とのこと。予が一度も見たことがないところに記してある)が、那智山の向山をさがせば必ずあるだろうと夢に見る。
翌日、右の例もあるから、おかしなことに思いながら,向山をさがすがない。それから夕方になり帰途ははなはだ艱難辛苦し、あるいは谷に堕ちる心配があるから、遠い道を回り、花山天皇の陵という所を越えるとき、この菌を多く見つけ出す。これは予が見たこともないもの、また、画をだけは見たが,どんな地に生ずるものとも、何の木の下に生ずるものとも読んだことがない。今も読めない(画だけで何にもないのだ。右の大きさの付記が別にあるあるのみ)。そうであるので、右のようなのは tact という他ない。
さて、予はこの夢のことを案ずるに、じつは前の藻の例は見たこともあり,生ずる地の経験もあることであるが、後の例は見たこともなく、生ずる地も何にも知らず、ただそのものがあると、名と図を知るだけである。それなのに見つけ出したのは、心理学者の理由とするところがあてにならないのに似ている。
予から見れば、上等植物とちがい、下等植物(菌、藻など)は、気候さえ大差がなければ、藻は水中、菌は土上、そして深林にはいよいよ多種必ず生ずるものである。寒帯、温帯,熱帯の産は大差あるのもないのもあるが、東西の国のちがいによってはあまりかわりないものである。
だから、ある国で目について別の国で目につかないのは、人の入り用、学問上の興味がいまだ多くないので,精を出して捜すことが少ないのだ。どこの国にもあるものであるのだ。だから、予は仮に夢の告げに動かされて、よく気をつけて捜し当てたというまでのことである。
すでに向山にあるだろうと夢に見て、そこにはなかったことから見れば、この夢に何の根拠もなく、また、妙でもなく、向山を越えて遠路をまわらなければ、見つけ出さなかったのだ。だから、人間が孫悟空の筋斗雲のように一瞬に1万8千里も走ることを得,また随意にどこにでも行き得る神足を受けることができれば、どんな夢を見て、どんなものを捜し当てることもできるものだと知るべきだ。