人を避けるための春画
徂徠は、若いとき上総で僧の中で成人した。その8代将軍徳川吉宗に奉った政論の中に僧は淫念を断たず、これを外に飾ることをつとめるゆえ、と言った。現に真言などでは、僧徒に猥行のものが多く、否、猥行のものばかりになり、予のようなものはこれのために悲しんで今も墓参もしないのだ。
一向徒には、わりあいにあまりに語ることができないほどのことがないのは、橘春暉の『北窓瑣談』にも、内に足るところがあるからである、といった。止水観とかなんとかは、じつは心の中で手淫するのと同一である。
西洋でもローマ教は女犯を禁じる。そのため男色が行なわれ、また『聖書』に何の一言もない聖母というものを作り出し、とても美しい婦人に描き表すのを争い、なかにはこれを拝して、仰敬の念よりはいちばんしたいという念の方が盛んなものもある。仏国の学者で、ローマ教僧が聖母より天啓を夢のなかで受けたと称するのは、じつは手淫しただけ、心の手淫のはなはだしい思い込みのど天上であるもの、といったものがいる。
我が国の『日本霊異記』にも、河内辺の僧が吉祥天像に懸想した話がある。高野に幼時いたとき見たが、われら、「心なき身にもしたさは知られけり、高野(たかの)で行(ぎょう)に秋の夕暮れ」(なんと金粟は、楠枝、お倉2美女の名歌の叔父だけあって、即席はうまいだろう)。
悉達多(しったった)(一切義成)のしゃれとでも詠みたかったほど、坊主らは女に凝り、所々の寺院の屏風まで、別嬪の天女、女菩薩が多く描いてあるのに驚いた。また、女嫌いのやつは、文殊周利のシリという音に近いのを幸い、童身文殊などを信心し、祖師の像のなかにも、美童を何の用もないのにそばに描いているなど、いずれも内心したいからでないわけがない。
よろしくそんなにしたければ、打ち明けて予の弟子になり、他のことは習えないから、和合門ばかりでも研究せよ。したいものをしないこと、否、しないように見せよう見せようとだけ心がけるから、そんな他のことにばかり時間を潰し、真実の教義も何も耳に入らないのだ。『呂覧』に、これを禁じることができなければよろしくこれを欲するままにすべきだ、ということがある。やりすぎてすっかり飽きてしまえば止むものである。
また、我が国の人の口は早いのは、そのひとつをいえば、予が当国でいろいろ珍しい植物を見つける。培養のしようによっては、国益ともなり、たとえ庭園に植えるとしても、それ相応の楽しみはあるものである。それなのに、これをちょっと口外するとたちまちに何になるとも知らないのに、これを取り尽くし、その植物は、嗚呼、名山霊岳にその福分を与えることができるのに、一朝にして全滅する。
このようなものにこのようなものを見せるのは、罪を作るというものである。この優劣の争い激しい世界に、今の今まで生息して、わずかに一山一隅一樹の下に生存しているのは、よくよくの因果があるものである。それを南方が取ったから、金になるものに相違ないなどといって、何のわけもなく全滅させて、何の得るところもない。そのことに対して、予に悪事をし始めるきっかけを作ったとの非難がなされるだろう。これにて予の穏やかに人を避けるための春画弄戯であることを知られよ。
道は人ごとに説くべきものではない。10,000人のなかに1人、1,000人のなかに1人ぐらいのものである。それなのに、この輩は何の決するところもなく何の志すところもなく、あいつの方へ行けば面白いことがあるだろうなどというぼんやりとしたことで、暇つぶしに押しかけて来るのは、畜生同然の自亡者である。何を見せたとしてかまうことがあろうか。ましてや、春画を見せてもらい、大喜びして帰るのだから。