科学は真言の一部
終わりに臨んで一言する。目下、念仏宗が我が国では盛んである。他の宗が比べられないくらいである。ただしこの宗は今日また今後の世に臨んでは、まことに無意味浅はかなものと思う。ゆえに早晩取って代わることができるのはわが真言である。
ユジン・ビュルヌフ(子の方)が、宗派というものは、義理の上から別れることは至って少なく、時々の事情世態の上から起こることが多い、と言っている。まことにその通りである。我が国の古えの法統はその通りである。摂関の子弟は必ず門跡、公卿の子弟は僧正、武士・家人の子弟は僧都以下というようなことであったため、第一に、「けふこのごろはくふやくはずに苦労する」と六画堂の鹿仙が踊りだし、それから、佐々木兄弟に頼朝が約束の日本の半分をくれないとか、熊谷が久下に訴訟で負けたとか、いりいろの事態世相の悶着から諸宗派は起こったのだ。
今はこの分離の事情がすでに伝を失うまでに遠くなったので、融和合同するのではないかと思う。さて、包有が攻撃にまさっていることは経王と『維摩経』で知ることができる。一方は和俗の気があり、一方にはないからである。ゆえに真言は金粟王の指揮に従えば、今後大いに勃興するに決まっている。
ついでに申す。念仏ということも弘法大師はいったが、前述の禅定と今日の口頭禅とがちがうように、心の中で仏を念ずるというのと、ぶつぶつと口で念誦せよというのは大ちがいである。予がこれまで親族などのなかでしきりに寺参りする女を見ると、みな若いときは淫奔の行いなど面白くないことがあった人ばかりである。さて、この輩は真言などは面白くないといって、みな念仏宗に帰す。
さて、このごろ英国の雑誌に、名は忘れたが、予と同じく縁覚(※えんがく:修行者※)で、有名な英国のドクトル・サリー(心理学の大家)をやり込めた奴がいる。その縁覚は、笑いということは愉快なときだけに起こるのではない、じつは不愉快から生ずることが多いと説いた。心が鬱がたまったとき、精神が倦んだとき、神経が凝ったときなど、それに関係ある神経を動かし、」それにまといついている血脈の積血を散ずるためである。
自分の家であったらなんとも哭かなければならないようなつまらないこと(たとえば〔これは金粟の言葉〕強姦のまね)を、大勢の人とともにおどけ芝居で見ると、これを笑う。つまらないことがひどいほど笑うのだ。そのことは愉快でも何でもない。ただ大勢の人とともに無心無念になって、酒を飲むのと同じく不愉快を外へ導き散らすのだ(金粟いわく、避雷針のように)。我が子の悪事を人のなかで新聞で見て、己を叱った奴の顔を悪評して笑うなど、みなこの類である。云々。まことにもっともである。支那には笑、哄、噱(きゃく)、胡盧(ころ)、その他、苦笑とか、冷笑とか、捜せば『佩文韻府』などには多くあるだろう。その字を見ても不愉快になるほどの字が多くある。
さて、予がこの論を読んで、念仏申す奴を多くこの巡礼宿で見ると、深く思い込んで力を入れていう人物ほど、なにか忘れるに忘れられないほどの罪障深いことをしたものである。じつに宗旨のためであるといって隣人の左右をもはばからず(しかも何の決まった時間もなく決まった儀式もなく、案内も予期もなく)七面鳥が鳴くように、不意に人の耳ざわりもかまわず、このような無意味な仏名などを言い散らすのは、万国に比類ない曲事(※くせごと:道にはずれたこと※)であろう。
すなわち右の笑いと同じく、自分一己の旧罪から忘れようにも忘れられない不愉快を発散しようとすることから出た一小事であって、第一、。不意にこのようなこと言い続ける心持ちの人の根性がわからないのだ。世態上このようなものは永続しないことと思う。人に害があるからである。
総じて物事は一時に二所二様に等しく行なわれないものなので、予は我が宗などは正期に一同の諷誦の他は、音を立てて「法身如来妙ちきちん」とかなんとか、おどけ半分の高声誦経は制止することを望むのだ。声が高ければ
高いほど、鬱は散ずるかもしれないが、心中の信念は薄くなるものである。