姪のこと
子分 法竜米虫殿
金粟王如来第三仏
南方熊楠
明治36年7月18日
貴状拝見、この度讃岐へ帰るとか、船中で見るためにこの状はちょっと長く書くのだ。よくよく味わいたまえ。しかし、世はただ今英国へさし急ぐ投書がある(9年かかって草したものを、あまり多種の国語で書いたため、1人でちょっと読む人がなく、なおそのまま順序を置き直し、文学雑誌へ出すのだ)。
また、「新方丈記」1巻(これは予みずからの『方丈記』である)を作り、オックスフォード大学へディキンズが残すべき文庫中、自筆のまま保存するのを、原稿は書き終わったが、所々直す。その方に飽きたらこれを書き、この方が飽きたらかれを書くという風にしたためるから、前後の並びは、よくみずから直して読まれたく存じます。
今日は希有の快晴、那智村の滝の祭りで、舵取りの心は神の心であると紀貫之が言ったように、村人はみな欲を離れて一生懸命に松明を振り歩く。やがて行列も出る。荻生徂徠は神社仏閣から配るお札を門に打ちつけ、仁伊藤斎は几帳面にみずから年越しの豆をまき、また、福沢翁も常に祭礼に寄付金をしたから、予も行ってなにか音頭取りでもやってやろうかと思ったが、なにせ暑さがすごいため、また予の部屋にはちょっと2,000円ほどのものがあるから、用心悪く、留守居しながら法布施のためこの状を汝に賜うのだ。
近頃、洋文のみをしたためているから、こんなものは書けない。さりとて無順序なことも書けないから、ちょっと順序立てをしるし付けた紙を左にして、さて、書くのだ。
第一に予の姪の楠枝の歌、さすが米虫ごとき心なきものまでも感心したとは、感心である。いまひとりのお倉といって世の姉の子、これは14歳になる。これも予が字くばりをしてやり、ディキンズを祝う歌を詠ませたが、8日ばかりかかってこのほど送ってきた。
年が低いから楠枝ほどになならないが、さすがは金粟王の姪である。やはり自分の名を詠み入れてみよといったところ、このような難題をよく詠ませた。「千早振る神の代も見し那智の滝、尽せぬ年の底や倉なる」。滝の底は尽きない年の倉のように貯えたかと問うという意味である。2人ともよく詠んだ。
むかし清水寺の大旦那田村将軍というものは、身長8尺に余り、起こるときは猛獣も恐れひれ伏したというが、その孫にあたる葛井親王というのが、9歳とかで、嵯峨帝の御前で的を射当てたところ、立ち上がって舞って喜び、親王を抱いて、「それがしは公の威により東夷を平らげ仲成を滅ぼしたが、それは年を積んだ上のことである。どうして親王の若く弱くしてこのような武功があるのに及びましょうか」と申したのを、人の親の子を思うほどあわれなことはないのだなあと、天皇も感嘆したという。
いま金粟王もまたこのようである。それなのに、このような子を持ちながら、家族をかまわず遊び怠け破産などする者が我が国に多いのはあまりに嘆かわしい。これはみな汝米虫の咎である。
予の父は偉人であったが、その後の男子にろくなものはなく、女子にみなこのようなものがあるのは、陸象山を、陸姓のなんとかという芸妓が、遜・抗・機・雲が没してから、陸氏の秀邁の気性は婦女に集まって男子にない、といって辱めたように、恥ずかしいことの至りである。
むかし小式部が住吉の浜で、波の上に鳥がいるのをよめと母和泉式部に言われて、「千早振る」と言ったので、波に千早振るとはいかがと人々はあきれたが、続けてそのまま「千早振る神のゐがきにあらねども波の上にも鳥居立つとは」の名吟があったとか。お倉の名の倉と滝とは少しも釣り合わないものなのに、よくも詠んだと感心いたすのだ。