方丈記(ほうじょうき)
『方丈記』は、鴨長明(かものちょうめい。1155年〜1216年)によって書かれた随筆。文章は和漢混淆文で書かれています。1212年(建暦2年)成立。
日本三大随筆のひとつ(残りの2つは、清少納言の『枕草子』と吉田兼好の『徒然草』)。
書名は、京都、日野山に方丈(一丈四方)の庵を結んで、そこで書いたことによります。
その冒頭、
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。
住む人もこれに同じ。
所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。
また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
あるいは露落ちて花残れり。
残るといへども朝日に枯れぬ。
あるいは花しぼみて露なほ消えず。
消えずといへども夕べを待つことなし。
南方熊楠(1867年~1941年)はディキンズとの共訳で『方丈記』の英訳をしています。 英訳『方丈記』
方丈記
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳11)
また前述のディキンズのすすめにより帰朝後、『方丈記』を共訳した。『皇立亜細亜協会(ロイヤル・アジアチック・ソサイエティー)雑誌』(1905年4月)に出す。従来日本人と英人との合作は必ず英人の名を先に載せるのを常としたが、小生の力が巨多なため、小生の名を前に出させ A Japanese Thoreau of the 12th Century, by クマグス・ミナカタおよび F.Victor.Dickins と掲げさせた。それなのに、英人は根性が太い、後年、 グラスゴウのゴワン会社の万国名著文庫にこの『方丈記』を収め出版するに及び、誰がしたものかディキンズの名のみを残し、小生の名を削った。しかしながら、小生はかねて万一に備えるため、本文中のちょっと目につかない所に小生がこの訳の主要な作者であることを明記しておいたのを、やはりちょっとちょっと気づかずそのまま出したため、小生の原訳であることが少しも損ぜられずにある。
先年、遠州に『方丈記』の専門家がいた。その異本写本はもとより、いかなる断紙でも『方丈記』に関するものはみな集めていた。この人が小生に書を送って件の『亜細亜協会雑誌』に出ている『方丈記』は夏目漱石の訳と聞くが、やはり小生らの訳であるのかと問われる。よって小生とディキンズの訳であることを明答し、万国袖珍文庫の寸法から出版年記、出版会社の名を答えておいた。またこの人の手により出たのであろうか、『日本及日本人』に漱石の伝記を書いて、漱石が訳した『方丈記』はロンドンの『亜細亜協会雑誌』に出た、とあった。大正11年1月小生上京中、政教社の三田村鳶魚(えんぎょ)氏が来訪されたおり、現物を見せて誤まりを正した。大毎社へ聞き合わせたところ、漱石の訳本は未刊で、氏が死するとき筐底に留めてあった、と。小生は決して漱石氏が生前にこのような法螺を吹いたとは思わないけれども、我が邦人が今少し海外における邦人の動作に注意されたいことである。
南方熊楠の手紙:"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳1)
また、「新方丈記」1巻(これは予みずからの『方丈記』である)を作り、オックスフォード大学へディキンズが残すべき文庫中、自筆のまま保存するのを、原稿は書き終わったが、所々直す。その方に飽きたらこれを書き、この方が飽きたらかれを書くという風にしたためるから、前後の並びは、よくみずから直して読まれたく存じます。
南方熊楠の手紙:"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳34)
『方丈記』の始めの、ゆく水の云々を、『文選』から出たというのもいかがだろうか。長明は『文選』は読んでいたであろう。しかしそれによって必ず作ったと予は思わない。いま世が書く長文の手紙も一々出処がある。そうであるから捏造というべきだろうか。