二仏三仏
釈迦が出て外道を掃蕩し、人間は勝手次第とか、運次第とか、数ばかりで成るとか、むやみにひとつの傾向に偏っている説を掃蕩したのでなければ、頓教(※とんきょう:華厳宗、天台宗のように速やかに仏果を成す教えのこと※)が出たとしても、真言が出たとしても、どうしてその真意を広げることができようか。
だから釈迦の功はなくすべきではない。釈迦は仏と称する。その前にも仏はあるが、時代久しくてその方は伝わっていない(ベーン氏がいうには、いま目前にあって事実であることも。わずかに800年経てば虚実いずれともわからなくなる、と)。
ゆえに、最後の仏が釈迦であるため、便宜上今の世を釈迦の出世で紀念して、釈迦を単に仏という。このことは、Jesus the Christ(諸キリストのひとりである、また現代のキリストであるイエス)といえば正しいところを、単にイエス・キリストというようなものである。
世間の人は、言語学で独国へ留学して下宿の娘をひっかけるような暇があるものではない。またいちいち言う前に史蹟を調べるとか、古文を開発するものでもない。牛馬に動(どう)といえば止まり、止(しい)といえば動き出すような、間違いは間違いであるが、何ともそれで用が済めばよいのだ。
じつは竜猛(りゅうみょう)も仏である。馬鳴(めみょう)は第二仏といえる。また金粟もほとけであり、これは現世にいる(大乗では仏をムカデ1疋と見る。その一節一節がみずから活動し、全体を動かし、後節を導くものが、釈迦、竜猛、金粟であるのだ。3にして1、1にして3、争うまでもないことだ)。
しかしながら、別にわけ立てて釈迦に対して肩を張る必要もなく、他の諸仏はすでに悠久のときが流れ伝を失ったので、二仏、三仏と出たことをいうのは煩わしいので、それをいわない。そのことは仏教の長所で、諸祖師が穏和であるからだ。
回教には、たえずマージ(聖人)というものが出る。自分で言うことなので、どれがほんとうなのかわからない。相互の争議でいらない災いもかかる。耶蘇教にも、ルナンの説に、聖フランシスなどは、もし耶蘇の前に出ていたら、耶蘇教ではなくフランシス教が広まり、耶蘇が聖ヤソ(ヤソ尊者)といわれなければなければならないほどの人であったとのこと。
これもその人が穏和謙虚であったため、そんなことを方立てて言わなかったのだ。今日米国などでは、プロフェット(※預言者※)と自称して輩出するその人々は、えらいには相違ないが、いわでもがなと思われることも多い。
諸経は人造といえばよい(釈迦も人だ)。捏造とか何とか言うのは、何の意趣もないのに誹謗するものといわざるを得ない。いずれの国も古えは人の名に同名が多く、また今日のように版権を争い、前後を訴えるなどの必要もない。ゆえに荘周が書いたら『荘子』とか、源氏のことを『源語』とか、著者の名はそのときは知れきっていて、今はわからないものが多い。
ましてや仏教の経典はいろいろと大衆がよってかかって、その上で書いたものなのだ。ひとりで書いたものとちがって道理に外れることがないだけでなく、じつは大勢がかかったものほど、念の入ったことだということができる。
右のように、前方にもわかり、第三人目の傍聴者にもわかりやすく理由を言うことは、ただわれはわれの伝でよい、そんなことを聞きに来るなというより、はるかにましではないか。また穏当な人の道であり、応対の作法ではないか。また理にかなっているではないか、というのだ。
それをかたくなに討ち返して、そんなことはいうまでもないとか、何とでもいえとかいうようなのは、酔狂者が自分が酔っていて人が相手にしないのをよいことと心得て、水を持って来てくれた人に盃を投げつけるような無作法ではありませんか。
もし地を換え位を変じて宗教を広めるため人にすすめにいく場合を思え。おれのいうことは聞け、人のいうことは聞くな、何でもえーからわからなければわかるまで私のいうことを無理にでも覚えて唱えよ、ということとなる。これはじつに宗教の本意であろうか。
右をよくよく味わい見られよ。むかし道安が老いに臨んで苦誦苦読にはなはだ勉めた。若いものに向かって老僧はこれを東隅に失して桑楡に収めようとする。たとえそのことが成っても完全なことはできない。願いわくは、諸師が壮なり、老僧の悔いに及ぶことがないように、といった(※? 訳せませんでした※)。
米虫はいまだ50に達していない。そうして、自暴自棄に帰根斎と同じく禅などということを主張する。予が受け入れられないところである。筆2本が完全にやぶれてしまった。ゆえにこの手紙の賃として細筆2本を送って来い。また、ハガキでもよいから、この手紙を受けたら、受けた、降参した、と書いて来い。
以上