不思議
ここで一言いう。
不思議ということがある。事不思議がある。物不思議がある。心不思議がある。理不思議がある。大日如来の大不思議がある。
予は、今日の科学は物不思議をばあらかた片付け、その順序だけざっと立て並べできていることと思う(人は理由とか原理とかいう。しかし実際は原理ではない。不思議を解剖して現象団としたまでである。このことは前書にいったので、省く)。
心不思議は、心理学というものがあるが,これは脳とか感覚諸器とかを離れずに研究中なので、物不思議を離れない。したがって、心ばかりの不思議の学というものは今はない。あるいは今だない。
次に事不思議は、数学の一事は、精微を極めていて、また今も進行している。論理学という学(論というと、人が2人以上で、あるいは自問自答でする人の行ない、すなわち人を所立地として見る意味が大部分を占める。ゆえに事理〔数理に対して〕というか性理といいたいことである。このことは、前年、パリへ申し上げていた)は、ド・モーガンおよびブールの2氏などは、数理同然に微細に説き始めたが,かなしいかな、人間というものは、目前の功になることを急いで行なうもので(代数学の発明はありながら、数千年、世に出なかった。指南車(※しなんしゃ:中国古代の、方向指示装置のある車。歯車仕掛けで、初めに南に向けておくと、車上の人形の手が常に南を指すというもの。黄帝が作ったとも、周公が作ったとも伝えられる。※)を知りながら、羅針盤は遅く出たように)、実用のために急ぐ必要のないことなので、数理ほどに明らかにならず、また修める者も少ない。
予は、一昨々夜少しも眠らなかった。これは英国へ急ぐ投書があって、すこぶる長文のものなので、直しているうちに、また書き添えるべきことが起こり、1を出してはあとがちょっと記憶し出せぬという双方相対のものなので、眠らずに書いている。なにか3日3夜も眠らずに生きているのは妙と思う人もあるだろうが、前田正名氏などもこの流儀と自ら語られたことがある。
小生はまたこのようなことを誇ろうにも、この状が誰かに、仁者の他に見られることもないだろう。ただ事実を言うのである。そうして今夜少々眠気がさすが、このようなものは、馬と同じで,一度休むとあとがなかなか出にくいものなので、強い茶を飲んで書き終えるつもりである。ただし、難しい外国語の文(9カ国の語で書いている)を書いた上のことなので、精神が弱っていき、字句判然とせず、また脱字もあろう。そのときはためらわずに聞き返されよ,答えよう。
そして知らないことは言わないことの例に、右のド・モーガンとブール氏の微細論理式をここに少々のせようとしたが、なにせ右の事情のため、書いても間違いのひとつでもあったら、何の意味もないこととなるので、ここでは省くのだ。小生はじつは知らないのに知ったようなことをいうと思われるのもかまわない。ただし、せめてはそんなものがあるということを知ったということだけは事実と思われよ。
前年、パリへ申したように、易の理または禅の公案などは、この事理の(人間社会また個人から見て)ごくごく荒いものながら、その用意があったのは感心である。