山本達雄(やまもと たつお)
山本達雄(1856年〜1947年)。明治-昭和期の銀行家・政治家。
横浜正金銀行の取締役、日本銀行理事を経て第5代日本銀行総裁に就任。
総裁退任後は貴族院勅撰議員となり、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣を歴任。
大正9年(1920年)に男爵授爵。
南方熊楠(1867~1941)とはロンドンで出会い、熊楠は山本達雄を大英博物館に案内しました。
山本達雄(1856年〜1947年)。明治-昭和期の銀行家・政治家。
横浜正金銀行の取締役、日本銀行理事を経て第5代日本銀行総裁に就任。
総裁退任後は貴族院勅撰議員となり、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣を歴任。
大正9年(1920年)に男爵授爵。
南方熊楠(1867~1941)とはロンドンで出会い、熊楠は山本達雄を大英博物館に案内しました。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳34)
大正11年春東京にあったとき、4月12日に代議士中村啓次郎、堂野前種松(小石川音羽墓地3万坪をもち1坪いくらと売った人)2氏に伴われ、山本達雄氏(子爵か男爵か記憶していないため氏と書く)を訪ねた。明治30年頃、この人は正金銀行の今西豊氏と英国に来て(当時山本氏は日本銀行総裁)、小生は今西氏とサンフランシスコで知人であったため、大英博物館に案内し、その礼に山本氏と並んで坐って食事を供せられたことがあった。
そのとき山本氏が問うたのは「西洋の婦女は日本のと味が同じか」とは、よく好きな人と覚えた。さて山本氏は小生を知らないという。この人は小生の研究所の発起人であるのに知らないと言うのを小生は面白く思わず、渡英されたときのことどもをいろいろ話したところ、ようやく思い出したらしかったが、なお貴公がそんなに勉学しているものならば農相である予が多少聞き知っているはずなのに、一向に聞き知ったことがないのは不思議などと言う。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳35)
小生は山本氏にこの出迎えに間に合わないようにさせようと思いつき、いろいろの標本を見せるうち、よい時分を計り、惚れ薬になるキノコをひとつ取り出す。これはインド諸島から綿を輸入したが久しく紀州の内海(※うつみ:和歌山県海南市内海※)という地の紡績会社の倉庫に置かれ腐ったのに生えた物で、図(※図は本で見てください。『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』 (河出文庫) 369頁※〕のようにまるで男根形、茎に癇癪筋があり、また頭から粘汁を出すのまで、その物そっくりである。60〜70年前に聞いたままにこれを図したオランダ人がいるが、実際その物を見たのは小生は初めてである。
ゴボウのような臭気がする。それを女にかがせると眼を細くし、歯を食いしばり、髣髴として誰でも自分の夫に見え、大惚れに惚れ出す。それを見せていろいろ面白くしゃべると、山本が問うて言うには「それはしごく結構だが、いっそ処女を喜ばす妙薬はないかね」。
小生は政教社の連中から、山本の亡妻はとても夫の勇勢に耐えきれず、進んで処女を選んで下女に置き、2人ずつ毎夜夫の両側に臥せさせる、それが孕めば出入りの町人に添え物を添えて払い下げ、また処女を置く、しかし、前年夫人が死に、その弔いにこれも払い下げられて夫のある女が来たのを、花橘の昔の匂いがゆかしくてまた引き留め宿らせたが、情けが凝って腹に宿り、夫の前を恥じて自殺したということを聞いていたので、それこそおいでになったなと、いよいよ声を張り上げ、「それはあるともあるとも大ありだが、寄付金をどっしりくれないと、ただで聞かすわけにはいかない」と言うと、「それは出すから」とくる。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳36)
時分はよしと1上1下3浅9深の法を活用すると、女は万事夢中になり、今までこんなよいことを知らなかったことが悔しいと一生懸命に抱きつき、割れるばかりにすりつけ持ち上げるものである、と説教すると山本農相はもちろん鶴見局長も鼠色のよだれを流し、「ハハハハハ」「フウフウフウ」「それはありがたい」などと感嘆が止まない。初めの威勢はどこへやら、小生を御祖師さんの再来のように三拝九拝して、「寄付帳はそこへおいていらっしゃい、いずれ差し上げましょう、まことにありがとうございました」と出口まで見送られた。
それから15日に山本氏から寄付金をもらい、25日朝、岡崎邦輔氏を訪ね寄付金1000円を申し受けた。そのとき右の惚れ薬の話をしたところ、「僕にもくれないか」とのこと、君のは処女でないから難しいが何とか一勘弁して申し上げましょう」「何分よろしく」「今夜大阪へ下るからそこでも世話しましょう」とのことで別れ、旅館へ帰るとすぐさま書面で処女でない女に効く方法をしたため、速達郵便で差し出した。
それには山本農相などは処女を好くようだが、処女というものは柳里恭も言ったように万事気詰まりで何の面白さもないものである。それなのに特にこれを好むのは、その締まりがよいためである。
さて、もったいないが仏説を少々聴聞させよう。釈迦が菩提樹の下で修行して、まさに成道しようとするとき、魔王波旬(※はじゅん:「悪者」を意味する悪魔の名※)の宮殿が振動し、また32の縁起の悪い夢を見る。そのため心が大いに楽しまず、こうなっては魔道はついに仏のために破られるのだと懊悩した。魔王の3人の女は、姉は可愛、既産婦の体を現じ、次女は可喜、初嫁婦の体、三女は喜見と名づけ山本農相専門の処女である。この3人の女は釈迦の所に現じ、ドジョウスクイを初め雑多の踊りをやらかし、ついに丸裸となって戯れかかる。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳38)
小生は山本、岡崎などの頼みを放っておきがたく、東京滞在中日光山に行ったとき、六鵜保氏(当時三井物産の石炭購入部次席)が小生のために大谷(だいや)川に午後1時から5時まで膝まである寒流(摂氏9度)に立ち歩いて、ようやく小瓶にふたつばかり取り集めたのが今ある。
防腐のためフォルマリンに入れたため万一中毒などを起こしては大変なので、そのうちゆっくりとフォルマリンを洗い去りつくして、大年増、中年増、新造、処女、また老婆用と5段に分けて1小包ずつ寄付金をくれた大株連へ分配しようと思う。山本前農相の好みの処女用のは最も難事で、これは琥珀の乳鉢と乳棒で半日もすらなければならないと思う。
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