中井芳楠(なかい よしくす)
中井芳楠(1853〜1903年)。銀行家。
和歌山県出身。
横浜正金銀行ロンドン支店長、取締役。ロンドン日本人会初代会頭。
横浜正金銀行は現在の東京銀行。当時、日本で唯一の外国為替銀行でした。
日清戦争賠償金3億6000万円の受領および日本への送金は横浜正金銀行ロンドン支店が行なうなど、大きな業績を果たし、それらの業績により中井芳楠は勲五等の叙勲を受けました。
南方熊楠(1867~1941)がロンドン滞在中に最も世話になった人物。熊楠に土宜法主を会わせたのも中井芳楠でした。
中井芳楠
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳5)
英国に着いてロンドンの正金銀行支店に着いたとき支店長故中井芳楠氏から書状を受けたが、それを聞き見ると父の訃報であった。この亡父は無学の人であったが、一生に家を起しただけでなく、寡言篤行の人で、その頃は世にまれであった賞辞を一代に3度まで地方庁より受けたのだ。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳21)
高野山に上り、土宜法主にロンドン以来28年めで面謁した。この法主は伊勢辺りのよほどの貧民の子で僧侶となったのち、慶応義塾に入り、洋学を覗き、僧中の改進家であった。
小生とロンドン正金銀行支店長故中井芳楠氏の宅で初めて面会して、旧識のように一生文通を絶たなかった。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳5)
田辺は亡中井芳楠氏は少し長く住んでいた地なので、帰国後、錦を飾る気持ちであったのか、その地に遊び、旧識不旧識多くが集まって会したが、例の聞きたがりが始まる。なかには英国の網は投げ網か引き網かと聞く者もあり、また、ウミガメを飼う方法はどんなかと聞く者もあり、医者の給料、茶代の有無、間男の相場、首くくりの処分、そんなことが続々質問され、肝心の歓迎の意はどこかへ飛び去り、夜2時とかまで問答し、敵は多勢こちらはひとり、銀行の外に出たこともないので、まことに無用のことに時間を潰してしまったと怒ったとのことである。もっともなことである。
南方熊楠の随筆:十二支考 兎に関する民俗と伝説(その7)
明治二十七年予この文を見出し『ネーチュル』へ訳載し大いに東洋人のために気を吐いた。その時予は窮巷の馬小屋に住んでいたが確か河瀬真孝子が公使、内田康哉子が書記官でこれを聞いて同郷人中井芳楠氏を通じて公使館で馳走に招かれたのを他人の酒を飲むを好かぬとして断わったが、河瀬内田二子の士を愛せるには今も深く感佩し居る。