高野山へ
Banryu-tei rock garden, Kongobu-ji / Aschaf
過ぐる大正7年、米一揆が諸所で蜂起していて、和歌山の舎弟宅も襲われたのを新聞で知り、兄弟はこのようなときに力となるものだと妻が言うので、さっそく和歌山に赴いたが、舎弟ひとりが宅に留まり、その妻も子も子の嫁もみなどこかへ逃走したかわからない。このような際に臨んだときは兄弟の他に力となるものはいないと悟った。
しかしながら、その米高の前後、小生は米が不足した。自宅に維新の頃の前の住人が騎馬の師範で、その頃の風習で士族はみな蓼(※たで:特有の香りと辛味を持ち、香辛料として薬味や刺身のつまなどに用いられる※)を多く植えてもっぱら飯のおかずとした(松平伊豆守信綱も武士の宅には蓼を多く植えるべしと訓示したという)。その種子が今も多く残り、また莧(ひゆ)といって7月の聖霊祭に仏前の供える、美味くも何ともない菜があり、この2物が小生宅の後園におびただしく生える。この2物を米に多く混ぜて炊き、飢えを凌ぎ、腹が減ると柔術の稽古をするように幾度となく帯を締め直してこれを抑えた。
それに舎弟は、小生が父より譲り受けた田地2町余りを預かりながら(30石は少なくともとれる)、ろくに満足な送金もしない。しかし、その子に妻を迎えたときの新婦の装束は、多額を費やしたものと見えて、三越の衣装模様の新報告をする雑誌の巻頭に彩色写真出ていたと聞く。戦国時代また外国の史籍に兄弟相殺害し、領土を奪い合ったことや兄弟の子孫を全滅させたことを多く読んで驚いたが、じつは小生の同父母の兄弟も、配偶者の如何によっては、このような無残な者に変わったということを、後日にようやく知ることとなった。
そのころ、小畔氏から3000円ほど送ってくれた。それで小生は妻子もろとも人間らしく飲食し、また学問をも続けることができたのだ。大正9年に同氏と和歌山で会って、高野山に上り、土宜法主にロンドン以来28年めで面謁した。この法主は伊勢辺りのよほどの貧民の子で僧侶となったのち、慶応義塾に入り、洋学を覗き、僧中の改進家であった。
小生とロンドン正金銀行支店長故中井芳楠氏の宅で初めて面会して、旧識のように一生文通を絶たなかった。弘法流の書をよくし、弘法以後の名筆といわれた。小畔氏と同伴して金剛峰寺にこの法主を訪ねたとき、貴顕等の手蹟で満ちた帖を出し、小生に何か書けと言われた。再三辞しても許さないので、
爪の上の土ほど稀(まれ)な身を持ちて法(のり)の主にも廻りあひぬる
これは阿難が釈尊の涅槃前に釈尊と問答した故事によった歌である。また白紙を出して今ひとつと頼まれたので、女が三味線を弾ずる体を走り書きして、
高野山弘法僧の声をこそ聞くべき空に響く三味線(この画を描いた紙は小畔氏が持ち帰った)
これは金剛峰寺の直前の、もと新別所とか言った所に曖昧女(※娼婦※)の巣窟が多く、毎夜そこで大騒ぎの音がただちに耳をつんざくばかり寺内に聞こえわたる。いかにも不体裁な至りゆえの諷意であった。後にその座にあって顔色が変わった高僧たちは、ある者は女に入れあげて山を逐電し、ある者は女色から始まって住寺を破産してしまったと聞いた。