父母について
小生は慶応3年4月15日和歌山市に生まれた。父は日高郡の今も30軒ほどしかない、極寒村の庄屋の次男であった。13歳のとき、こんな寒村の庄屋になったところで仕方ないと思い立って、御坊町と申すところの豪家へ丁稚奉公に出た。沢庵漬を出して来いと命じられたとき、力が足らずに、夜中ふんどしをほどき梁にかけて重しの石を上げ下げし、沢庵漬を出したとのこと。
その後、和歌山市に出て、清水という家で長いこと番頭をつとめ(今の神田鐳蔵氏の妻君の祖父に仕えたのです)、主人が死んで後、その幼子を守り立て、成人の後に退職して、南方という家の入り婿になった。この南方は雑賀屋と申し、今も雑賀屋町と申し、近頃まで和歌山監獄署があったその辺りがむかし雑賀屋の屋敷であった。
鴻ノ池の主人が雑賀屋へ金の屏風を12枚とか借りにきたときに、雑賀屋主人が2枚しかないと断った。 鴻ノ池主人は怒って、雑賀屋は予に恥をかかせようと偽りを言い、あるものを隠してなしと言う、と言う。
使いが帰って告げた。雑賀屋主人は、鴻ノ池主人のいう金屏風とはどんなものか、予の方にある金屏風はこれだと見せたのは、純金の板で屏風の板を作ったものである。鴻ノ池より来ていた使いがこれを見て大いに驚き、我が家の主人が求めているのは金箔金泥で装った屏風であると言うのを聞いて、そんなものはいくらでもある、幾十枚でも持って行けと言って貸し与えたという。
その雑賀屋が末衰えて老母と娘ひとりが残り(男子があったが早世する。この男子は士族に肩を並べて藩学校で学んでいた。小生はわからないなりにこの男子の残した書物を読んで学問を始めたのだ)、家は朽ち屋根は傾いてなんともならない。この娘の婿があったが、それも死んだ。
小生の亡父弥右衛門の他にこの家の整理をできる者はいないということで、後夫に望まれた。そのころは農家の子がむやみに商人になることができなかった制度のため、亡父は商売を始め独立するにはこの家に入り婿にいくより他の手段がなかったため、入り婿となり、家政を整理するといって何もかも売り払ったところ、13両ほど手中に残った。仏壇も売ろうとしたが、妻が手を合わせて泣いたため、ため、これだけは売らなかった。この仏壇に安置していた大日如来像は非常の名作で、拙弟宅にいま残った旧物はこれだけである。
亡父は家政を整理して商売にかかったが、思わしくは行かない。妻は前夫との間に女ひとり、亡父との間に男子二人ほどあったと聞くが、小生は知らない。このようにして思わしくない営業中に妻もその母も死に、女子はいずれかへ蓄電し、男子二人を残されて亡父の迷惑はひととおりではなかった。
そのころ亡父がいつも通る町に茶碗屋があって、美しい女が時々その店に見える。この家の主人の姪である。その行いがきわめて正しかったため、亡父は請うて後妻とした。これが小生の亡母である。この亡母はきわめて家政のうまい人で、亡父に嫁いで来てから身代が追々よくなり、明治10年、西南の役ごろ非常にもうけ、和歌山のみならず関西でも有数の富家となった。
もとは金物屋であったが、明治11年頃から米屋も兼ね、後には営業しなくなり、金貸しのみを事業としていた。父の前妻の子はいずれも小生が生まれる前に死に失せ、後妻には子が多かったが、成長した者は男子4人と女子ひとりである。