南方弥兵衛(みなかた やへえ)
南方弥兵衛(1859年〜1924年)。熊楠(1867~1941)の兄。
明治11年(1878年)に父から家督を譲られ、弥兵衛を襲名。もとの名前は藤吉。
南方弥兵衛(1859年〜1924年)。熊楠(1867~1941)の兄。
明治11年(1878年)に父から家督を譲られ、弥兵衛を襲名。もとの名前は藤吉。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳5)
死に先立つ3、4年前、身代を半分にして半分を長男弥兵衛に自分の名とともに譲り、残る半分を五文して自分がその一分を持ち、四分を次男である小生、三男常楠、四男楠次郎と小生の姉とに分かち、さて、兄弥兵衛は好色淫佚放恣驕縦な者であるので、我が死んで5年内に破産するだろう、次男熊楠は学問好きなので学問で世を過ごすだろう、ただし金銭に無頓着な者なので一生裕福になることはできないだろう、三男常楠は謹厚温柔な人物なのでこれこそ我が後を継ぐべき者、また我が家を保続することができるであろう者である、兄弥兵衛亡滅の後は兄熊楠も姉も末弟もこの常楠を本家として帰依せよと言って、亡父は自分の持ち分と常楠の持ち分を合同して酒造を始められた。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳13)
この母が死んだ頃、兄弥兵衛がすでに無茶苦茶に相場などに手を出し、家ががら空きになっていた。この人は酒は飲まないけれど無類の女好きで、亡父の余光で金銭が乏しくなかったため、人に義理を立てるの何のということなく、幇間(たいこもち)のような雑輩を親愛するのみゆえ、世の人に面白く思われなかった。その頃、和歌山一の美女というものがいた。紀州侯の家老久野(くの)丹波守(伊勢田丸の城主)の孫で、この久野家は今までであれば男爵相当だが、絶えてしまった。この女が若後家であったのを兄が妾とし、亡父が選んでくれた本妻を好まなかった(和泉の尾崎という所の第一の豪家の女である)、久野の孫女の他になお4人の女を囲っていた。
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