野槌(ノヅチ)
野槌、『砂石集』巻五、章三に「比叡山の2人の学匠が相契って、先立つことがあれば必ず転生先を告げるようと。さて1人が死んで夢で告げて「我は野槌という者に生まれた」と言った。「これは常にはない獣で、深山の中に稀にある」と言い、「形は大きく目鼻手足がなく、ただ口がある。人を取って食う。これは仏法をひたすら名利のために学んで勝負争論して、口ばかり賢しいけれども、智慧の眼も信の手も、戒の足もないがゆえに、このような恐ろしい物に生まれた」と言った。
予が熊野の山人に聞いたところ、野槌はムグラモチの様な小獣で、悪臭があると言った。この説は『砂石集』の文に近い。そして『和漢三才図会』巻四十五にはこれを蛇の□とし、「深山の木の□にいる。大きいものは径5寸、長さ3尺。頭尾が均等で尾は尖っていない。槌の柄がない物に似ている。ゆえに俗に野槌という名で呼ぶ。和州吉野山中菜摘川、清明の瀧の辺りで往々これを見る。その口は大きく人の足を咬む。下り坂は甚だ速く走り人を追う。ただし登っていくのは極めて遅い。このためこれに逢ったときは急いで高所に登りなさい。そうすれば追いつくことはできない」とある。
今もこの物は大和ではさして稀ではない。丹波市の近所で、昔捕らえてきて床下で飼っていて、ただ今、眼が小さく、その体は俵のように短大である者となり、握り飯を与えると転がってきて食うが、その様子はすこぶる迂鈍であると、これを目撃した人が予にこの話をした。前年、大阪朝日か、大阪毎日の地方通信に、和泉の山中にこの物がいて、土地の人は俗にノロと言うとあったのを見た。当国日高郡川又で、この物は倉庫に籠っていることがあり、それほど稀ではないと言うのを聞いた。
また田辺湾の沿岸、堅田の地に、古に地面が落ち込んでできたと思われる、至って険しい谷穴(方言ホラ)があり、ノーヅツと名づける。俚伝で、昔、野槌といった蛇がこれに住み、長さおよそ5〜6尺、太さ面桶(めんつう)のようで、頭が体と直角をなす状態があたかも槌のようで、急に落下して人を咬んだと。よって今も人が恐れてこの谷穴に入らない。
考えるに、山本亡羊の『百品考』に蛟が出れば山が崩れるという漢土の説を挙げ、蛟をホラと訓読みしている。このような地崩れの際に古爬虫の巨大な遺骸が化石して露出したのを蛟と名付けたのであって、ホラはもと洞の意味であるが、転じて地崩れより生じた谷穴をもそう呼んだのであろう。
また『東海道名所記』三には、今切の渡し、昔は山に続いていた陸地であったが、百余年ばかり以前に山の中から螺の貝が脱出して海へ飛び入り、その跡が殊の外崩れて、荒井の浜より5里ばかりひとつ海になったゆえに今切と申すのだ。『和漢三才図会』巻四十七にも「およそ地震にあらずして山岳が暴れ崩裂があるのは宝螺が跳び出てそうなるのだと相伝える。遠州荒井の今切のようなのは所々大小のこれがある。龍か螺か。その実焉は知らない」とある。
洞も宝螺もホラと訓ずるゆえ、混じて生じた説であろうか。もしくは地崩れのとき螺類の化石が露出するのに拠ったのか。古、堅田に、山が崩れて件の谷穴ができる際、異様の爬虫化石が出たから、これを野槌蛇と心得て件の話を生んだのか。
丹波市の野槌に似た外国の例は、1766年、インド山間の諸王が、世界と伴って生死すると信じ、崇拝している神蛇ナイク・ベンスを見た人が「この蛇は岩窟に住み、週に1度出て参詣者が奉った山羊の子または鶏を食う。それから堀に入って水を呑み、泥中で転がり回り、そしてまた窟に入る。我が輩がその泥の上に印した跡より推測するに、この蛇は長さに比べて非常に厚く、□り2尺を超える」と記している(V. Ball, 'Jungle Life in India,' 1880, p. 491)。
また『淵鑑類函』巻四三九に、『夷堅志』を引いて、南宋の紹興23年(近衛帝仁平3年)建康に現われた猪豚蛇のことを「竹叢より出てきた。その長さ3丈、顔が大きく杵のよう。4足が生え、身にくまなく毛がある。猪のような声を出す。□人を追い呑□之勢云々。噛人立死とあるのは。野槌を獣とするも、蛇とするも、多少似ているところがあるようだ。
野槌の意味については、本282号663頁以下に出口君の論がある。予は一向不案内なことではあるが、『古事記伝』五に、『和名抄』で水神また蛟を和名美豆知と訓じている。豆(つ)は之(の)に通う言葉、知は尊称で、野槌などの例のごとしとあるので、「ミヅチ」は水の主、また蛇の主、野槌は野の主ということであろう。
『日本紀』によれば、イザナギ・イザナミ2尊が日神をお生みになる前に野槌を生んだ。鈴鹿連胤の『神社覈録』を調べたところ、延喜式神名帳、加賀国加賀郡に野蛟神社が2ヶ所ある。ひとつは金山彦を祭り、ひとつは高皇産霊尊など3神を祭る。野蛟はノヅチと読むべしとある。また下総国に蛟□(※虫+罔※)神社があり、ミヅチと読む。水神罔象女を祭るとあることから考えると、加賀の2社は、原と野槌を祭っているのであって、野槌は蛇の属であったことは明らかだろう。神が蛇までも産んだ例は、ギリシアの大地女神ガイアの子に怪蛇ピュトンがある(Seyffert. 'A Dictionary of Classical Antiquities,' London, 19008, p. 531.)。
『類聚名物考』巻三三七に、野仲「ノヅチ」、文選の訓にいっている、その意味は註でも詳らかでない。「張平子□野仲而殲遊光(ツキガミ)註、野仲遊光悪鬼也、兄弟八人常在人間、作怪言」とあるので、後世、野槌は支那の悪鬼野仲に宛てられるほど評判が悪くなり、神より降りて怪物となったのだ。
思うに、ミヅチ、ノヅチ、いずれも古あった大蛇を、水に住むのと野に棲むのと従って、その主とした名であろう。大和和泉などに現在するという野槌蛇は予は親しく見ないのでその虚実を知らない。あるいはある種の蛇が病に罹って、人間の象皮病のようにこのような奇形を生ずるのではないか。
無脚蜥蜴に"Uropeltid ae の一群があり、みな蛇に似ているが、身体短く、尾の端が太くて頭と等しく、その姿はあたかも斜めに切って、体の後部を取り除いたようで、その切断したかのような表面の尖鱗を、地に押し付けて行動する(Tennent, The Natural History of Ceylon,' 1861. p. 302 図あり)。本邦で稀に2足の蛇が出て、『蒹葭堂雑録』などにその図を載せる。これは両脚蜥蜴の一種であろう。よって推察するに、野槌と称する者の中に、あるいは一種の無脚蜥蜴の頭尾均等で後体が截り去られた形をしている者が全くないとは言い切れないだろう。
とにかく野槌は古の蛇神で野の神として崇拝されたのを、後世その伝を失い、異様奇形の蛇を呼ぶこととなり、種々の怪談を生ずるに及んだのであろう。
追加、レオ・アスリカヌスがいうことにはアントランテ山に毒龍が多く、窟内に住む。胴が甚だ太く頭尾が細いので身体が重く行動は甚だ遅いと(Ramusio, op. cit., tom. i. fol 94; Lacroix, 'Science and Literature of the Middle Ages,' London, N. D., p. 221. 図あり)。また龍の歩行はすこぶる迂鈍で、大雨のとき谷に落ちて多く死ぬと、何か中古の欧州の書で見たが、今その名を記せない。
このような由来であろうか。今日ギリシアで龍(ドラコス)と呼ぶのは、人を食う巨人で、力は強いが、智慧が甚だ鈍く、人間に欺かれた珍譚が多い(Tozer, 'Researches in the Highlands of Turkey,' vol. ii p. 293 seqq, 19860)。本文、和泉で野槌をノロということと考え合わすべし。