海亀
20090812 Notojima Aquarium 12 (Flying the sea) / BONGURI
海亀、紀州田辺では、海亀を穫っても殺さず、酒を飲ませて放ってやるのを常とする。海に入ってしばらくして浮き上がり、恩を謝して去るという。実は呼吸に暇をとるのだ。この地は海亀を食う人が多いが、これを殺す者は古来その業を世伝し、他の人はこれを殺さない。
予が知っている新宮の船頭は持ち船を浮宝丸と号している。その人自身は見たことがないけれども、海亀が稀に緑色で甚だ光る異宝を抱いて浮く。これを亀の浮宝を名付け、見る者は最も幸運の兆しであるとする。
只野真葛の『磯通太比(いそづたひ)』に、奥州の漁夫が2年続けて同一の亀を穫り、酒を多く飲ませ放ってやったが3年めにその亀が鸚鵡螺をひとつ背負って来て贈り、すぐに死に、その螺を宝としその亀を葬ったところ、官が命じて亀霊明神と号させた話がある。
『和漢三才図会』巻七十六に、淡路の由良島に毎年6月3日、社僧が龍王を祭るとき、大小の海亀が必ず来て遊び、群をなすと述べてある。神代に豊玉姫が亀に乗り、海に渡ることがあった。ベトナムのトラヲスの祖も、亀に乗り水を渡って来たという(Neis et Septans, 'Rapport sur un Voyage d' exploration aux Sources du Dong-Nai, Cochinchine Francaise, No. 10, 1882, p. 44)。また鹿島明神が早亀という亀に乗り、長門豊浦に到ったということが『類聚名物考』巻三一一に見える。これらの諸例から、古、我が国に亀を神もしくは神使とする風習が盛んであったのだと推察できる。
また海坊主といって海亀を漁事に不祥であるとすることが倭三巻四六に出ていて「それがたまたま捕えられることがあり、まさにこれを殺そうとするとき、この者は手を合わせ涙を落とし、救いを乞う者のようだ」と言われるのは、17世紀の終わりに英国学士会員フラヤーがスラットで海亀を捕ることを記して「この物は全く蟾蜍の愛すべきに似ている。婦女のように長いため息をつき、小児のように啼く。裏返して置くと行くことができない」と言われるのに近い(Fryer, 'A New Account' of East Indeia and Persia 1698, p. 122)。