6-1 石芋、弘法大師
Alocasia odora / 食わず芋(クワズイモ) / titanium22
郷研182頁の「石芋」に、寛延2年青山某の葛飾記下に西海神村の内、阿取坊明神社(あすはみょうじんしゃ)の入り口に石芋がある。弘法大師がある家に宿を求めたが、媼は貸さず大師は怒って、傍らに植え設けていた芋を石に加持し、以後食うことができず、みなここへ捨てたので、今も四時ともに腐らず、年々葉を生ず。同社の傍らの田の中に、片葉の蘆がある。同じく大師の加持というと載っている。なぜ加持して片葉としたのか、書いてはないが、先は怒らずに気慰めにやったものと見える。
大師はよほど腹黒い癇癪の強い芋好きだったと見えて、越後下総の外土佐の幡多郡にも食わず芋というのがある。野生した根を村人が抜いて来て横切りにして、四国巡拝の輩に安値で売る。その影を茶碗の水に映し、大師の名号を唱えて用いれば、種々の病を治すと言う。植物書を見ると、食用の芋と別物で、本来食えない物だ。
甲斐国の団子山の石はみな団子である。大師が通ったとき、1人の老女が団子を作っているのを見て、乞うたが与えず、怒って印を結び、団子を石に化したと、柳里恭の『ひとりね』に見える。
紀州西牟婁郡の朝来(あっそ)・新庄の2村の境、新庄峠を朝来へ下る坂の側に弘法井戸がある。泉の水は常に満ちながら溢れず、たぐいまれな清水だ。大師がここの貧家で水を乞うと遠方へ汲みに行ってくれた。その報いに祈って出したんだそうな。
この峠から富田坂に至る、数里の間は平原で、耕作によいが、豌豆を作らない。これを植えると、必ず穴が少しもないさやの中に、自ずと虫が生ずる。近隣諸村には絶えてそのことがない。件の平原の住民らは大師に豌豆を乞われて一粒も与えなかった罰だと言う。
またこの辺りで伝えることに、油桃はどことは知らないが、大師が桃を乞うたとき、「これは椿の実じゃ、食ってはならない」と偽って与えず、大師はこれを呪って、果皮が毛を失い、椿の実のようになったので、椿桃(つばいもも)と呼ぶと。
『和漢三才図会』にこの物は、和名都波木桃(つばきもも)、俗に豆波以桃(とばいもも)と出ている。『十訓抄』に徳大寺左大臣が蔵人の高近に、大きな「つばいもも」の木を、内侍所に参らせたことがある。『大英類典』21巻に、尋常の桃が今日も油桃を生じ、甚だしい場合はひとつの桃の実で一部は普通の桃、一部は油桃になることもあるから、油桃は桃が変成したものに疑いないと出ている。大師の一件は法螺話だが、桃が油桃になったという俗伝は事実に違いはない。
四国の食わず蛤は、蛤類の化石で、それにも同様の伝説がある。芋や蛤が石になっては人が困るが、桃が油桃になっても一向にかまわない。また四国札所五十二番とかの大師堂の後ろの山に苞毬にとげがない栗を生ずる。大師がこの山の栗を食おうとして、とげが多いのを憎み、咒したのだそうな。
また四国にも、紀州日高郡龍神村、西牟婁郡近野村などにも三度栗がある。いずれも大師が食べてみて、素敵にうまかったので、年に3度なれと命じたとのこと。『紀伊続風土記』77巻に「西牟婁郡西垣内村に三度栗が多い。持山を年に1度宛焼く。焼いた林より出る新芽に実るのだ。8月の彼岸より10月末頃までに本中末と3度に熟す」とある。そうであれば名前ほど珍しくない。
キリストも弘法流の心の狭い意地悪だったものか、ベツレヘム辺りで、ひよこ豆の形をした石が多い野がある。土地の人が言うには、キリストがここを通り、豆を蒔く男に何を蒔いているのかと問うと、石を蒔くのだと答えた。キリストは、汝は石を収穫するだろうと言った。果たして石の豆ばかり生じたと(バートン夫人の『西里亜巴列斯丁及聖地内情』1875年版巻2、178頁)。ピエロッチの『巴列斯丁風俗口碑記』(1864年)79頁には、キリストでなく聖母が豆を石に変じたとある。
またカルメル山のエリアスの甜瓜(まくわうり)畑の言い伝えを記していうには、この予言者がこの地を通り、喉が渇いたので、瓜畑の番人にひとつ乞うたが、かの者は石であると言って与えなかった。エリアスは彼に向かい石と言った果実は石になるぞと言って去る。それより瓜が石となるというが、じつは石灰質で、甜瓜の形をした中空な饅頭石だと。
また死海の近所にアブラハム池がある。その底に石灰質の決勝が満布する。伝えていうには、アブラハムがある日、ヘブロンよりここに来て、塩を求めたが、住民が塩はないと偽る。アブラハムは怒って、この後、この地よりヘブロンへの道はなくなり、塩もなくなるだろうと言うと果たしてそうなったと。
大師が己れに情が厚かった者に、相応以上の返礼をした例は、上述の弘法井の他に、東牟婁郡四村、大字大瀬近所に寺があり、その辺りに蒔かずの蕎麦といって名高いのがある。昔、大師がここの家に食を乞うと、何もなかったが亭主は憐れみ深くて畑に蒔こうと貯めて置いた蕎麦をある限り施したので、大師は例の石になれの咒もならず、亭主に向かい、この蕎麦の殻を蒔けと命ずる。その通りすると、殻から蕎麦が生え大いに殖え、以来毎年蒔かずに生い茂るとは有り難い。
予はその辺りを毎度通るが今だ寺近くに行かないから、実物を見ない。しかし大瀬から2里ばかり歩いて、西牟婁郡野中にかかる小広峠から西、数町の間は、畑地道傍所を選ばず、蕎麦に恰好で、人手を借りずに続生していくと見える。
コラン・ド・ブランチーの『遺宝霊像評彙』(1821〜2)巻2の202頁に、メートル尊者は、4世紀に宗旨に殉じて殺されたが、葡萄を守護すると信じられる。あるとき、メートル尊者が土地の人の許可なしにそこの葡萄を食い、咎められて初めて気が付き、弁償のため、やたらにその土地の人の葡萄を殖や遺したからだと載っている。
(以下略)