幼少時代、海外遊学時代
小生はいたって節倹な家に生まれました。父はひと風あった人で、ただ今の13円ほどの資金をもって身を起こし、和歌山県で第5番といわれる金持ちになりました。木下友三郎氏と小生が遊交したころは、和歌山市で第1番の金持ちであった。しかし不文至極の人であった。したがって学問の必要を知り、小生にはずいぶん学問させられた。
父ははなはだ勘弁のよい人で、故三浦安氏の問いに応じ、藩の経済のことなどについて意見を述べたこともある。故吉川泰次郎男爵など、また今の専売特許局長中松盛雄氏など、いつも紀州商人の鏡であると誉められました。
小生は9人ばかりあった子の第4男で、幼時は(貧乏ではないが)父の節倹がはなはだしかったため、店で売るブリキ板を紙に代え、鍋釜などに符号を付けるベニガラ粉を墨とし、紙屑屋から鍋釜を包むために買い入れた反古の中から中村□(りっしんべん+易)斎の『訓蒙図彙』を拾い出し、それを手本にまず画を学び、次に字を学びました。
6、7才のとき、右の『訓蒙図彙』の字をことごとく知りました。それから諸家に行き書を借り、『本草綱目』、『和漢三才図会』、『諸国名所図会』、『日本紀』などを14歳ごろまでにことごとく写す。11歳のときに、『文選』六臣註を読書師匠が他の弟子に読書を教える間にちょいちょいと盗み見て、「江の賦」、「海の賦」の諸動物の形状記載を暗記して帰り、また古道具屋の店頭に積んである『列仙伝』の像と伝を、その道具屋主人が夏日昼寝する間に覗きに行き、逃げ帰っては筆し筆ししたものは、今も和歌山の宅にある。右の様に学問好きで、『続群書類従』、『史籍集覧』、『類聚名物考』、『法苑珠林』、その他大抵の参考書を写した。
明治19年に商業を学ぼうとしてサンフランシスコに渡ったが、やはり学問好きで商業など手につかず、ランシンの農学校に入ったところ、日本人と米人と論を闘わせたことがある。小生1人がその咎を負い脱走し、それから学校で勉学することを好まず、浪人となり、諸州および西インドを流浪、もっぱら動植物を集め、ロンドンへ行っても非常に艱苦し、馬部屋のような家に住み、金さえあれば書籍を購入した。
(先年旅順閉塞で名高かった斎藤七五郎氏(今は大佐か)がそのころ少尉で富士艦滞在中、小生が艦員を大英博物館へ案内し、いろいろ学問上のものをたびたび見せたので、同艦の写真を艦長と将校から右の七五郎氏に託し、その写真屋から人を雇い小生に贈られたことがあった。小生の家がわからずにとうとう持ち帰り、その後郵便で小生方へ届いたほどのことである)
ゆえに今日その一部分を保存しているうちにも、我が国ではちょっと見られない珍書が多い。また在外中に手でひかえたり、ひそかに纂録考証して書き付けたものははなはだ多いが、難筆で他人には読めない。