駝鳥、唇熊
Sloth Bear (Melursus ursinus) / cliff1066™
学問をしないものは見聞が狭く、何でもないことを異様に信じ、また申し触らします。猿または熊を山男、山□(けものへんに喿)などと申すのに似ていることを、ひとつ申し上げます。
当地近くの東神社と申す丘上の森の中に建っている神社がある。それにホーホーと鳴く鳥がいる。この鳥が鳴く夜は近傍でカツオがとれるというので、カツオ鳥と名づけました。小生が友人と言って聞くと、何のこともないミミズクである。
当町の写真屋の裏の松の枝でもカツオ鳥が鳴くと漁夫らは申します。写真屋の主人に聞くと、ミミズクが来るのだ、自分の家の庭のことなのでいつも見及ぶ、また糞もまったくミミズクの糞であると申されました。
田間、沼沢などで大声を出して鳴くヨシゴイと申す鳥がいる。『和漢三才図会』42巻の終わりに出ている。はなはだ声の大きなものです。ひとり長堤を歩くときなど後から怪物に呼びかけられるようです。このようなことを誤っていろいろの怪談が出たものと存ぜられます。ヨシゴイは小さいものでしょうか。小生は、明治18年夏に日光に行ったが、利根川の辺で聞きました。あたかも怪物が人を嘲弄するように聞こえ申しました。
また狒々がいよいよインド、セイロンのみに産するとするが、『山海経』のできたころ、これを見及び聞き及んだ者が支那にいたことと存じ申されます。ダチョウなどはアフリカの産で、支那での記載も遅く、『和漢三才図会』に、鳳五郎 Fogrel フォーゲル(鳥の意味)(※ほうごろう:ダチョウの別名。江戸時代、オランダ語の"struis vogel"(ダチョウ)の"vogel"(鳥)の部分がなまって、ダチョウを鳳五郎と呼んだ※)をオランダから持って来たとのことを記してあるのが、我が国でこの鳥の見えた初めのように人は申します。
『本草綱目』ではヒクイドリ(南洋マラッカス群島の産)とダチョウを混同しているようである。しかしながら、小生は『史籍集覧』の何かで『本草綱目』よりずっと早く我が国へこの鳥が渡って来たことを記してあるのを見及びました。御入用ならば探し出し申し上げましょう(ひかえたものはたしか別室にあります)。
後記。後花園帝のとき作った『神明鏡』上巻に、孝徳天皇白雉元年、新羅国から大鳥を献ず、大きくて駝のように銅鉄を食らう、とある。
Tennent, 'The Natural History of Ceylon'(『錫蘭〔せいろん〕博物志』)1861年ロンドン版に見当たりましたので、略訳申し上げます。
セイロンの土人がもっとも畏れる食肉獣は唇熊で、セイロンの森林に住む大型獣はこれがあるのみ。主として樹の穴、岩崖□中の蜂蜜を求めて食う。時として諸根を食うために土を掘ることがある。また羽蟻や蟻を食う。ジャフナ近傍の森を横切った予の友は、この熊が吠えるのに気づき見たところ、高い樹の枝に座し、一方の手で赤蟻の巣を口に入れ、他方の手で赤蟻が怒ってその額と唇を刺すのを掃き去ろうとつとめていた。
島の北および東南岸の低く乾いた地方に棲息し、山地、また西方湿潤の平原に住まない。両肩の間、背に長叢毛がある。児子が自分で逃げることができない間はこれ(この長毛)をつかまえ、母に連れられて逃げる。
1850年、北方州が厳しく日照りしたとき、カレチ地方にこの熊が多く渇して夜間水を求めようとして井の中にすべり落ち、地面が滑らかなため逃げ上がることができず、そのために婦女が井辺に集まるのをやめることになった。
この熊は稀に肉を食い、孤独に蜜と実を探るのでその性質は卑怯退隠である。人または他の獣に近づかれるとき、急に退くことができず凶暴性はないけれど狼狽のため自分を守ろうとして他を襲うことになる。このようなとき、その攻撃ははなはなだ猛烈で、森中の他の獣よりはもっともセイロン人に恐れられる。
土人は鉄砲を持っていないときはコデリという軽い斧を身に付け、
その頭を撃つ。唇熊は、人を見ると必ずその顔をうかがい、人を倒せば必ず一番にその眼を襲う。予は島中を旅して、しばしばこの熊に襲われ傷つけられた人を見たが、土人の色が黒いのに反し、傷の縫い目が白くてすこぶるおそろしかった。
ビンテンのヴェッダス(土人)は蜜を蓄えて食資とするが、蜜の香に誘われ、この熊が人家を襲うのを恐れるのが常習である。郵便脚夫はまたその害に遭うのを怖れ、松明をとってこの熊を驚かし走らせる。(註には、この熊の害を免れるお守り〔タリスマン〕があることを書いてある。)
右、唇熊が唇をのばし戯れるところは小生は常に見た。まことに野婆などというの図のようで、また『和漢三才』などに載る図のようであります。