広畠氏から聞いた俗譚
次に小生の知人に広畠岩吉といって53歳ほどの人でいろいろ俗譚を多く知っている人に承ったことを、左に申し上げましょう。
前便で申し上げました兵生の若松という山男は、常に身に松脂をすりつけ、土の上に転がることにより、鉄砲も槍も身に入らないものとなったとのこと。
また前に申し上げました、神が鍋をたたき合図して猟師が猿を犬に食わせた話。このために今でも山小屋では鍋を叩くのをはなはだ忌むとのこと。
安堵峰(兵生の)辺にオメキというものがある。1本足で背の高い入道である。広畠氏の知人で、今も生きていれば90歳ほどの人がいる。その人が大台原山で材木伐りをしたことがある。60年ほど前のことであろう。そのとき、アカギウラ(東牟婁郡小口村の赤城という所があるので、その辺か)の勘八という猟師がいた。勘八の兄は、山にいて鹿笛を吹き、鹿を集めて討とうとしたが、後の絶崖から大筒(おおづつ)という蛇がころがかかって食い殺された。
(大筒、小筒といって二様の蛇がいて、カラサオを打つように、転げ回り落ちて来るのだ。大筒は長く、小筒は短い。これは小生が昨年7月の『東京人類学会雑誌』に出した野槌蛇か。)
よって勘八は鉄砲を持ち、その辺をまわり、兄の敵を討とうとした。そうして3年が過ぎたが、大筒に遭わない。ただし1度オメキに遭った。すなわち、オメキが来て、勘八を呼ぶので、もはや逃げられないと思い立ち止まったところ、勘八は喚き合いをしようといって、我からまず喚こうというと、いや我から喚こうと言ううちに、速やかに鉄砲をその耳に差し向け1発放ったところ、汝の声は大きいなと言って失せたという。
また一所に夜、岩のさしかかった下に宿り粥を煮ているうちに、岩の上から盥大の足が下りて来て額を打つが、慌てずに落ち着いていると失せた。さて、向こうの方にこす様の音がするので、鉄砲を差し向け覗いていると近づくものがある。さあ放とうと思うとき、待ってくれと大声がする。見ると人である。その人は茯苓(※ぶくりょう:サルノコシカケ科のきのこの菌核。漢方で、利尿・鎮痛・鎮静などに用いる※)を取ることを仕事とするもので、山下から火を目当てに一宿を頼もうと上がってきたのだった。互いに危ないところであったと笑い興じたという。
右は前文に申し上げた一本ダタラと山男(やまおじ)を混ぜたような話で、広畠氏の説では、いずれも一物がいろいろに化けるのだ、とのことです。
右の広畠氏の知った人の話で、伊勢の巨勢という村を3里ほど離れた山は、4里四方、怪物がいるといって人が入らない。大胆なものがいて、その山の近くで炭焼きし、冬になって里に出ようとするが、妻である者の出産が近づき、やむを得ず小屋に止まっていると、妻はにわかに出産する。よって医者に薬をもらおうとして夫は走って行った。
帰って見ると、小屋に血があふれしたたって人はいない。大いに驚いて鉄砲を持ち、鍋の足を3つ折り、鉄砲にこめて雪上の大足跡をたずねて行くと、1丈(約3m)ほどの大人のようなものが妻の髪をつかみ、吊るして持って行く。後から追いかけ30間(1間は約1.8m)ほどになったとき、かの者はふりむき、妻を樹の枝にかける。さて、この者の顔を見るや否や、妻をつかみ頸を食い切る、と同時に、以前にこのような怪物を打つには脇を打てと聞いていたため、脇を打ったところ、大いに呻き、山岳動揺して走り去る。
日が暮れたため帰って見ると、生まれた児は全く食われたと見え、血だけがある。翌日行って血を尋ねて穴にたどり着いたところ、大きな猿が苦しんでいる。それを打ち殺して、保存の方法もないので尾を取って帰る。仏子のような白色のもので、はなはだ美しい。巨勢の医家(名を聞いたが忘れた、と)に蔵してあったのを、件の古老が見た、という。
何ともわけのわからない、取るに足りない話だが、聞いたままに記し申し上げました。
小生はお話の考古学会というものを存ぜず、雑誌など無論見たこともありません。
小生は学問上費用が多く、人類学会にも入っておらず、雑誌は特別の憐愍をもってただでもらっております。
木地引(きじびき)とかいうもののことは、小生ようやく今年『紀伊続風土記』で見つけ、奇体のことと存じております。そんなものはただ今は当国では聞きません。貴論(l※「木地屋物語」※)の載った雑誌は今だ拝見いたさず、拝見のうえ写し取り、雑誌はお返し申し上げます。