狒々について
Baboon family / Tambako the Jaguar
お尋ねの狒々のこと。小生は10年ばかり前にロンドンを去る数十日前に雑誌 'Knowledge' へ投書しましたところ、図などの難しいことが起こり、また漢字の校正をしてくれる者もなく、やむを得ず出立の僅々間際数日前に原稿をひとまず取り戻し、その後、多用で今は和歌山の舎弟の庫の中に蔵してあります。
記憶のまま引用書を取り寄せ、左に申し上げましょう。右の原稿を取り寄せようとしても、小生の手筆の洋文を読める者はなく、取り寄せることはできません。
狒々は、合信氏は『博物新編』には、たしか英語の baboon をもってこれに宛てていると記憶しています。 しかし、baboon 類は支那近くに存せず、また形状も漢書に記すところと違い申します。
須川賢久氏の『具氏博物書訳』には、たしかに狒々をバブーンに宛てております。小生もそれまでこの説をもっともなことと存じておりましたところ、在欧中、毎度諸処の動物園で生きた諸獣を観察してから、狒々は baboon(猿の類)ではなく、まったく熊の類と思いつき申しました(『本草』には人熊をその一名としている)。
俗に申す好婬老爺をヒヒなど申しますのは、攫などいうものに近いと存ぜられます。
(このようなものが支那の一部にいることが支那の諸書に見え、いずれも大きな猴で、婦女を婬し、子を生ませる、とある。コーチ(※ベトナム北部、ソンコイ川流域※)にもあることを彼方の書で見ました。
猿を人と混同して見誤る諸例は Tylor の 'Primitive Culture' に多く挙げています。また実際に人を猿とが婬することは古ローマの文学にも見え、前年(12,3年前の)仏国雑誌 'Revue Scientifique' に見え、小生は写しておきました。人と交わって子を生むというのは、いかがと存ぜられますか。小生はロンドン動物園で異属の猿が交わって間種を生み、その子が成長するのを見ました。)
唇熊と申す獣はロンドンなどの動物園で常に見る。シンガポールなどの熱地の動物園にはいっそう常に見及びます。これが狒々であると小生は確信します。左に訳文を差し上げます(原文は洋紙へ写し封入します)。
(元禄のころ越後の国で獲った狒々は名高いもので、三世相の年代記などに図を出しているものがある。小野蘭山の『本草啓蒙』に、これは羆〔ひぐま〕である、とある。熊の大きなものと見えます。羆は日本にいないもので、小生はかつて大英博物館で中アジア産の熊類標本を調べ、これが古支那書の非熊非熊の羆であろうと思われる種をひかえて書き記しておいたものがある。これまた和歌山の庫中にあり、今ちょっとわかりません。麻緒のような色の熊です。)
また『和名抄』で、攫をヤマコと訓じていた。『和漢三才図会』では、飛騨の黒ん坊というものを攫に宛てていた。あらかじめ人の意を知るといったのは、九州の山ワロ(山童、『西遊記』などに出る。天狗が人の意を知ることは『駿台雑話』で見たと覚えています)と同じで、その形状は明らかに猿の大きなものである。
ヤマコは今の山男のことで、山男の話はもと猿を人と混同して起こった話と存じます。小生は昨冬、安堵峰へ行く途中、わりあいに山の浅い福定(※ふくさだ:福定の大銀杏で知られる集落※)という所の民から得た猿は、新しく殺され、その肉を吊るして売ってあった。その皮をただ今この手紙をしたためるのに敷物としている。鯨尺(※くじらじゃく:布地の長さを測るのに使われていた尺。ふつうの尺の1.25倍※)で測ると、鼻端から尾尖まで2尺4寸、前手端の間2尺1寸あり、このようなものが深林中で座していたら、小生のような山に慣れている男でも多少は恐怖するのを免れることはできまい。
ましてや、山民などは理屈のわからないもので、いたって臆病なものが多いので、いろいろの説を触れ散らすものと存ぜられます。