7-4 はえ、安倍晴明
また曰く、
渓流また他にも腹の赤い「はえ」という魚がいる。方言で「あかぶと」と言う。昔、とある人がこの魚を取って炙って食おうとするところへ弘法大師が来て、買い求めて放った。それ以来腹がこげた跡が赤いのだ、と。
熊楠15、6歳のとき、高野山御廟橋の辺りで背に串の跡のような斑点のある「はえ」を見た。傍らの人が「人が串に焼く所を大師が命を救い、この水に放ったからそうなった」と言った。
しかしその「はえ」は他所の溪水にもしばしば見る。上芳養村では「あかぶと」すなわち腹の赤い「はえ」はメスだけだと言うとのこと。畔田翠山の『水族志』に「あかもと」「あかむつ」など方言を種々挙げて白ばえのオスであるとあるのは別物であろうか。
日高郡上山路村殿原の谷口という字の田のなかに晴明の社という小祠がある。この田に棲む蛭は大きさも形も尋常の蛭と同じだが血を吸わない。医療のために捕らえても益がない。『荘子』にいう、役に立たない木は伐られることを免れるという類いだ。
祠のそばに晴明の井といって清水があり、この殿原の応行寺という所と隣字丹生川間に晴明の淵があり、その上の道のそばに晴明が転落したという険しい崖があり、淵の彼方丹生川側に腰掛け石がある。
晴明が熊野詣のとき、応行寺で駕篭に乗り丹生川の方へ行くがその途中、駕篭かきどもが金を盗ろうとしてこの崖より晴明を転落させるが死なず、川を渡り中の石に腰掛け憩う。大いに驚き詫びを入れると晴明は怒った気色なく望みの物を与えようといって金の入った袋を与える。大いに喜んで持ち帰って開いて見ると木の葉ばかり入っていたとのこと。
それから晴明が笠塔山に登る。この山に馬の馬場といって長さ五六十間幅四五間の馬場のような平坦な道がある。今も人が修めていないのに一切草木が生えず、両側に大木が生え並んでいる。誰も乗らない白馬がしばしば現れて馳せ行く。
また以前に言った通り木偶の茶屋といって人がたまたま野宿すれば夜中にたちまち小屋が立ち人形芝居が盛んに催され、夜が明けると忽然と消失する所がある。晴明がここに来て笠を樹に掛け塔に擬して祈ってからその怪は長い間止んだという。
東牟婁郡七川村平井という所の神林には晴明の手植えの異樹があり、誰もその名を知らず、枝を折って予に示すのを見るとオガタマノキだった。
那智山にも晴明の遺跡が色々と伝わる。『古事談』に、晴明は俗人ながら那智千日の行人である、毎日一回瀧に立って打たれた、とある。先生も無止大峰行人云々とあるから広く熊野地方を旅したかもしれない。