(蛇の変化7)
慙じて蛇になった例は、陸前佐沼の城主平直信の妻、佐沼御前館で働く大工の美男を見初め、夜分閨を出てその小舎を尋ねしも見当らず、内へ帰れば戸が鎖されいた。心深く愧じ身を佐治川に投げて、その主の蛇神となり、今に祭の前後必ず人を溺らすそうだ(『郷』四巻四号)。愛執に依って蛇となったは、『沙石集』七に、ある人の娘鎌倉若宮僧坊の児を恋い、死んで児を悩死せしめ、蛇となって児の尸を纏うた譚あり。妬みの故に蛇となったは、梁の氏(『五雑俎』八に見ゆれど予その出処も子細も詳らかにせぬから、知った方は葉書で教えられたい)や、『発心集』に見えたわが夫を娘に譲って、その睦まじきを羨むにつけ、指ことごとく蛇に化りたる尼公等あり。
もしそれ失恋の極蛇になったもっとも顕著なは、紀伊の清姫の話に留まる。事跡は屋代弘賢の『道成寺考』等にほとんど集め尽くしたから今また贅せず、ただ二つ三つ先輩のまだ気付かぬ事を述べんに、清姫という名余り古くもなき戯曲や道成寺の略物語等に、真砂庄司の女というも謡曲に始めて見え、古くは寡婦また若寡婦と記した。さて谷本博士は、『古事記』に、品地別命肥長比売と婚し、窃かに伺えば、その美人は蛇なり、すなわち見畏みて遁げたもう。その肥長比売患えて海原を光して、船より追い来れば、ますます見畏みて、山の陰より御船を引き越して逃げ上り行しつとあるを、この語の遠祖と言われたが、これただ蛇が女に化けおりしを見顕わし、恐れ逃げた一点ばかりの類話で、正しくその全話の根本じゃない。
『記』に由って考うるに、この肥長比売は大物主神の子か孫で、この一件すなわち品地別命がかの神の告により、出雲にかの神を斎いだ宮へ詣でた時の事たり。上にも言った通り、この神の一族は蛇を族霊としたから、この時も品地別命が肥長比売の膚に雕り付けた蛇の族霊の標か何かを見て、その部族を忌み逃げ出した事と思う。
大物主神は素戔嗚尊が脚摩乳手摩乳夫妻の女を娶って生んだ子とも裔ともいう(『日本紀』一)。この夫妻の名をかく書いたは宛字で、『古事記』には足名椎手名椎に作る。既く論じた通り、上古の野椎ミツチなど、蛇の尊称らしきより推せば、足名椎手名椎は蛇の手足なきを号としたので、この蛇神夫妻の女を悪蛇が奪いに来た。ところを尊が救うて妻とした「その跡で稲田大蛇を丸で呑み」さて産み出した子孫だから世々蛇を族霊としたはずである。
予は清姫の話は何か拠るべき事実があったので、他の話に拠って建立された丸切の作り物と思わぬが、もし仏徒が基づく所あって多少附会した所もあろうといえば、その基づく所は釈尊の従弟で、天眼第一たりし阿那律尊者の伝だろう。
この尊者については、近出の『仏教大辞彙』などに見える珍譚甚多い。例せば阿那律すでに阿羅漢となって、顔容美しきを見て女と思い、犯さんとしてその男たるを知り、自らその身を見れば女となりおり、愧じて深山に隠れ数年帰らず。阿那律その妻子の歎くを憐み、その者を尋ねて悔過せしめ、男子となり復って家内に遇わしめた(『経律異相』十三)。
『四分律』十三に、毘舎離の女他国へ嫁して姑と諍い本国へ還るに、阿那律と同行せしを、夫追い及んで詰ると、〈婦いわく我この尊者とともに行く、兄弟相逐うごとし他の過悪なし〉と、夫怒りて阿を打ってほとんど死せしめたと出るが、阿は高の知れた人間の女に、心を動かすような弱い聖でなく、かつて林下に住みし時、前生に天にあって妻とした天女降って、天上の楽を説くに対し、〈諸の天に生まれ楽しむ者、一切苦しまざるなし、天女汝まさに知るべし、我生死を尽くすを〉と喝破したは、南方先生若い盛りに黒奴女の夜這いを叱り卻したに次いで豪い(『別訳雑阿含経』巻二十、南方先生已下は拙の手製)。
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「蛇に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収