神社合祀の悪結果 第1
これより予は一般に現われた合祀の悪結果を、おおよそ分類して記そう(※熊楠は8つに分類※)。
第一
神社合祀で敬神思想を高めたとは、政府当局が地方官公吏の文書に騙されているのだ。
電車鉄道の便利がなく、人力車すら多く通じない紀州鄙地の山岳重畳、平沙渺茫たる所にあっては、到底遠路の神社に詣でることはできない。故に古来最寄りの地点に神を勧請し、社を建て、産土神(うぶすながみ)として朝夕参り、1日と15日には、必ず村民みなみなが参り、もって神恩を感謝し、聖徳を仰ぐ。
『菅原伝授鑑』という戯曲三段目に、白太夫という百姓の老爺(ろうや)が70歳の祝いに、3人の息子の嫁が集い来て料理を調える間に、72文の賽銭と嫁に貰った3本の扇を持ち、
子供の将来を氏神へ頼んだり見せたりしようとして、いまだその社を知らない一人の息子の嫁を伴い参詣するところがある。
田舎には合祀前どの地にも、このような質朴で和気あいあいとした良風俗があった。平生は農耕や養蚕で多忙でも、祭日ごとに嫁も里へ帰って老父を見舞い、婆は三升樽を携えて孫を抱きに嫁いだ娘の在所へ行ったのだ。かの小さく窮窟な西洋の礼拝堂に貴族富豪だけが車を馳せて説教を聞きに行くのに無数の貧人は道端で黒パンを噛んで身の不運をかこっているのと天と地の違いである。
このようにして大字ごとに存する神社は大いに社交をも助け、平生頼んでいた用向きの話も祭日に片付き、麁闊(そかつ)であった輩も親しみ合い、仲よくしたのだ。只今のように産土神が往復山道1里(※1里は約3.9km※)あるいは5里、はなはだしいのは10里も歩かなければ詣でることができないとあっては、老少婦女や貧人は、神を拝し、敬神の実を挙げることができない。
前述の一方杉のある近野村のごときは、去年秋、合祀先の禿山の頂の社へ新産婦が嬰児とその姉である小児を伴い詣ったが、往復3里の山路を歩みがたく中途で3人の親子途方に暮れ、ああ誰かわが産土神(うぶすながみ)をこのような遠方へ拉致して行ったのかと嘆くのを見かねて、1里半ほどその女児を負い送り届けやった人がいると聞く。
西牟婁郡三川豊川村は山嶽重畳、一村の行程は高野山を含める伊都郡(いとごおり)に等しいと称す。その20大字32社を減じて、ことごとく面川(めんこ)の春日社に併せ、宮木をことごとく伐って2000余円に売りながら、本社へは800円しか入らない。さてその神主は田辺へ来て毎度売婬女に打ち込み、財産差押えを受けた。この村は全く無神になり、また仏寺をも潰しおわり、仏像を糞担桶(こえたんご)に入れ、他の寺へ運ばさせた。村長の家高(いえたか)某という者は、「世に神仏は無用の物である。万事、村長の言葉をさえ遵奉すれば安寧幸福である」との訓えである。
新井白石が『藩翰譜』に、三春藩主の秋田氏が暴虐であったことを述べて、その民の娘が「年が長じても歯を黒く染められない(※江戸時代、歯を黒く染めることは既婚婦人のしるしであった※)」と言ったことをさえ苛政の一例に思われたが、今はまた何でもない郡吏や一村長の一存で、村民が神に詣で名を嬰児に命ずる式すら挙げることができないというのもひどいことだ。
その様子はあたかも17世紀に、英国内乱に際し、旧儀古式を全廃し、セントポール大聖堂を市場と化し、その洗礼盆で馬を水浴させ、愚民が「私は神を信じない、麦粉と水と塩を信じる」と騒がしく言い、僧に向かって「汝自身の祈祷一俵を磨場(つきや)に持っていき磨(ひ)いて粉にして朝食を済ませよ」などと罵ったのと同じである。
『智度論』で、恭敬は礼拝に起こると言っている。今すでに礼拝すべき神社がない、その民はいかにして恭敬の何たるかを理解するのか。すでに恭敬を知らない民を作り、そのうえで後日、年長者目上の者に従順であることを望むのは、はなはだしき矛盾ではないだろうか。
このように敬神したくても、敬神すべき拠り所がすっかり失われていては、ないよりは優っているという心から、いろいろの淫祀を祭り、蛇、狐、天狗、生霊などを拝し、また心ならずも天理教、金光教など祖先と異なる教に入って、先祖の霊牌を川へ流し、田畑を売って大和、備前の本山へ納め、流浪して市街へ出て、米つきなどして気ままに生活する者も多く、病いを治すといって大食いして死する者もあり、腐った水を飲んで失心する者もある。改宗はその人々の勝手次第であるが、知らず知らずのうちにこのような改宗を余儀なくさせた官公吏の罪ははなはだ重い。合祀はこのように敬神の念を減殺する。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収