熊野古道の惨状1
むかし京都より本宮に詣るのに、九十九王子といって歴代の諸帝が行幸御幸のとき、奉幣祈願された分社がある。いずれも史蹟として重要な上、いわゆる熊野式の建築古儀を存し、学術上の参考物である。しかるにその多くは合祀で失われてしまった。
一、二、例を挙げると、出立王子(でたちおうじ)は藤原定家卿の『後鳥羽院熊野御幸記』にも見るごとく、この後鳥羽上皇は鎌倉幕府討滅を熊野に親しく祈るため、御譲位後、年1回ずつ24度の参詣があり、毎度この社の辺りにお泊まりになり(御所谷(ごしょたに)と申す)、みずから塩垢離をお取りになってお祈りされたその神社を見る影もなく滅却し、その跡地は悪童の放尿場となり、また小汚い湯巻(※ゆまき:女性の腰巻き※)、おむつなどがいつも干されている。
それより遠くない所にある西の王子と言うのは、脇屋義助が四国で義兵を挙げようと打ち立った所である。この社も件の出立王子と今一大字の稲荷社とともに、劣等の八坂神社に合祀して三社の頭字(かしらじ)を集めて八立稲神社と称させたが、西の王子の氏子は承知せず、他の大字と絶交し、一同社費を納めず、監獄へ入れると脅しても、入れるなら本望だ、大字民70余戸のことごとくを入獄されよと答え、祭日には多年恩を蒙った神社を潰すような神職は畜生にも劣っているといって、坊主を招致し経を読ませ祭典を済ます。神か仏かさっぱり分からない。よって懲らしめのため、神社跡地の樹林を伐り尽させようと命じたが、この神林を伐ればたちまち小山が崩れて人家を潰すうえ、その下の官道を破るゆえ、実施されない。ついに降参して郡の役所より復社を黙許した。
また南富田村の金刀比羅社(ことひらしゃ)は、いにしえ熊野の神がここに住んでいたが、海近くて波の音がやかましいといって本宮へ行った。熊野三景のひとつといわれ、眺望絶佳の丘の上に7ha余りの田畑山林がある。地震津波のとき、大きな働きをする地である。これを無理に維持困難と詐称して他の社へ合祀させたが、村民が承知せず、結党して郡衙に訴えること止まず、ついに昨年末県庁より復社を許可した。
おかしいのは合祀先の神社の神職が、神社は戻っても神体は還さないといって、おのれをその社の兼務をさせるための質に取っている。しかしながら真正の神体は合祀のとき先方へ渡さず隠してあったため、復社の一刹那すでに帰っていらっしゃった。燕石十襲(※えんせきじっしゅう:? 燕石は燕山から出る石、玉(ぎょく)に似ているが玉でない無価値な石のことで、まがい物の意。燕石十襲では、まがいものを十代にわたって世襲する、無価値な物を価値のある物のように大切にするということでしょうか?※)で、この神主の所行は笑ってしまう。この他にも合祀の際、偽の神体を渡し、真の神体を隠してある所が多いと聞く。
かつて薩摩の人に聞いたことには、太閤秀吉が本願寺の僧に薩摩藩をスパイさせたことから、薩摩藩主の島津氏が大いに恨み一向宗を厳禁としたが、士庶のその宗旨を奉ずる者は、弥陀仏像を柱の中に収め朝夕読経して維新後に及んだ、と。
新井白石が岩松氏に与えた書簡にも、甲州の原虎胤が信玄から改宗を勧められて従わず相模に走ったことや、内藤如安、高山友祥が天主教を止めず、甘んじてルソンに趣いたことを論じて、これは宗教上の迷信が厚すぎただけではなかろう、実は祖先来自分が思い込んで崇奉する宗旨を、何の訳もなく、当時の執政当局者に気に入らぬという一事のみのゆえに、たちまち自分の宗旨を棄てて顧みないというのは、いかにも人間らしく、男らしくも、武士らしくもないと思い詰めた意気の上から出たことであろう、と言っている。
上述の村民らの志も、また愛国抗外心の一原素として強いて咎めるべきではなかろう。また西行の『山家集』に名高き八上王子(やかみのおうじ)、平重盛の祈死で名高き岩田王子なども、厳然として立派に存立しているのに、岩田村役場の直前にある、もと炭焼き男の庭の鎮守であった小祠を村社と指定し、これに合併し、その跡の神林(シイノキの大密林である、伊藤篤太郎博士の説に、支那、日本にのみ見る物であるので、もっとも保護されたいとのこと)、カラタチバナなどいう珍植物が多いのを伐り尽して、村吏や二、三の富人の私利を営もうと企んだのを、有志の抗議で合祀は中止したが、無理往生に差し出させた合祀請願書は取り消さないため、いつ亡びるかわからない。
全国に目下合祀準備中のものが2万2000余あると、当局が得々と語るのは、多くはこの類の神社が暴滅にかかろうとするものと知られる。モンテスキューいわく、虐政の最も虐なのは法に執着して虐を行なうものである、と。吾輩は外国人の書を読み、このような虐政が行なわれたからこそフランスでは大不祥の事変(※フランス革命※)を生み出せたのだと、よそ事に聞き流していた当時を、今となってかえって恋しく思うのだ。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収