神社合祀の悪結果 第7(後編)
和歌山市に近い岩橋村に、古来大名が高価の釜壺を埋めたと唄う童謡がある。熊楠がロンドンにあった日、これを考えてかの村に必ず上古の遺物を埋めてあるのだろうと思い、これを徳川頼倫侯に話したことがある。侯は、熊楠の言によったか否かは知らないが、数年前このことを大学連に話し、大野雲外氏が赴き掘ったところ、貴重な上古の遺品をおびただしく発見した、と雑誌で見た。英国のリッブル河辺の民には、昔より一の丘の上に登り一の谷を見ると英国無双の宝物を得ることができるという古伝がある。嘘だと思い気に掛ける人はなかったが、七十二年前、果たしてそこよりアルフレッド大王時代およびその少しのちの古銀貨計七千枚、外に宝物を無数に掘り出した。
紀州西牟婁郡の滝尻王子社は、清和帝熊野詣りの御旧蹟で、奥州の秀衡建立の七堂伽藍があった。金をもって装飾していたが天正の兵火で亡失した。某の木の某の方角に黄金を埋めたという歌を伝える。数年前その所を考え出し、夜中大きな金塊を掘り得て逐電した者があるという。
このような有実の伝説は、神社およびその近地にもっとも多い。素人には知れぬながら、およそ深き土中より炭一片を得るが考古学上非常の大獲物であるのだ。その他にも比類のことが多い。それなのに何の心得なき姦民やエセ神職の私利のため神林は伐られ、社地は勝手に掘られ、古塚は発掘され、取る物さえ取れば跡は全く壊し尽くすため、国宝ともなるべき学者の研究を要する古物珍品が絶えず失われ、たまたまその道の人の手に入っても出所が知れぬゆえ、学術上の研究にさしたる功がないことが多い。合祀のためこのような嘆かわしきことが多く行なわれるのは、前日増田于信氏が史蹟保存会で述べていたと承る。
大和では武内宿禰の墓を畑とし、大阪府には敏達帝の行宮趾を潰した、と聞く。このような名蹟を畑として米の四、五俵得たとして何の穫利なのか。木戸銭取って見世物にしても、そんな口銭(こうせん)は上がるのだ。
また備前国邑久(おく)郡朝日村の飯盛(いいもり)神社は、旧藩主の崇敬厚かった大きな塚を祭る。中央に頭分(かしらぶん)を埋め、周囲に子分(こぶん)の遺体を埋めた跡がある。俗に平経盛の塚という。経盛の塚だけならば、この人敦盛という美少年の父であったというばかりで、わが国に何の殊勲があったとも聞かないので、潰すのもあるいは許せる。
しかしながらこの辺に神軍(かみいくさ)の伝説がのこり、また石の鏃(やじり)などが出る。墓の構造、埋め方からして経盛時代の物ではない。故に上古の墳墓制、史書に載らない時代の制を考えるのに、はなはだ有効の材料である。これも合祀のため荒寥し、早晩畑になってしまうのだろう。
古い古いと自国を自慢するが常なる日本人ほど旧物を破壊する民はないとは、建国わずか百三十余年の米国人の口よりすら毎々嗤笑の態度をもって言われるのを聞く。なので誰の物と分からなくとも、古えの制度風俗を察することができる物は、みな保存しさえすれば、即急に分からなくとも、追い追いいろいろの新発見も出るのだ。
和歌山市の岡の宮という社は、元禄ごろまでは九頭(くず)大明神と仏説に九頭の竜王を祭っているような名で誰も気に留めなかったが、その社の隅にあった黒煤(くろすす)けた箱の書付から気がつき、この地は『続日本紀』に見えた通り、聖武天皇が紀伊国岡の宮にお留まりになったという御旧蹟であることを見出だしたため、今の名に改めたのである。
昨年一月拝承すると、皇族二千余方(かた)の内ただ四百九十方のみ御墓の所在が知れている由。神社はもっとも皇族に関係深いので一切保存して徐々に詮議すべきなのに、無茶苦茶に乱滅してしまうのは、あたかも皇族華冑の遺跡が分からないうちに乱滅するのはとどのつまり厄介払いというように相聞こえ、まことに恐懼憤慨の至りである。合祀が、史蹟を乱すと、風俗制度の古えを察するのに大害あることはかくのごとしである。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収